松の内が終わる前に大森八剱神社へ滑り込み初詣

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED
正月気分も抜けたような抜けてないような中、ふと気づけば1月7日、松の内の最終日ではないか。こりゃいけないということで、慌てて近所の大森八剱神社(八剣神社)へ初詣に行ってきた。
どこからどこまでを正月と呼ぶかは判断の分かれるところだけど、年末年始のイベントの大部分は歳神様(としがみさま)をめぐるあれこれで、初詣も7日までにしないと初詣とは言えなくなるという面がある。
歳神様は、その年の幸運をもたらす神様として、正月から数日間、各家庭に居座っていく。汚い部屋には訪れない歳神様に来てもらうために大掃除をして、目印に門松を置き、歳神様が来ていることを知らせる標縄飾りを飾り、鏡餅をお供えする。おせちも、おとそも、雑煮も、書き初めも、みんな歳神様が絡んでいる。お年玉も、もともとは歳神様に供えた餅を神棚から下ろして、御利益を家長から年少者に分け与えたことに始まる。その丸餅を年玉と呼んでいたからだ。
松の内というのは、門松を飾っておく期間のことで、最近は7日までというのが一般的になっている。本来は小正月の15日までだったのだけど、だんだんみんな忙しくなって、そんなにのんびりもしていられなくなった。
なので、一応7日までを正月と呼んでいいのだと思う。この間に初詣に行って、年賀状のお返しも済ませるのが習いだ。7日は七草粥を食べる日ということで、区切りをつけるにもいい。
その後の正月行事としては、鏡開きがある。もともとは20日だったのが、家光の月命日に当たるということで、11日に行うようになった。門松や注連縄などを焼くどんど焼き(左義長)は15日だから、これが年末年始行事の締めくくりということになる。
そんな正月のお勉強を終えたところで、そろそろ初詣に行こう。なんとかぎりぎり間に合った。

長い階段は三つに分かれていて、一段目と二段目の間に手水舎がある。
神社やお寺で、このように途中に平らな休憩所があるのは、着物を着た人が登りで乱れた裾を直すためにわざと作ってあるんだそうだ。この前テレビの雑学クイズでやっているのを見て、初めて知った。

階段を登り切ったところではまだ正面に拝殿をはっきり見ることができない。
この車止めのような塀は、蕃塀(ばんべい)という尾張地方の神社特有のものだ。古くからある神社に多い。
不浄除のためらしいのだけど、どうして尾張地方にしかないのか、そのあたりの事情はよく分からない。

この長い階段を上から見下ろす風景が印象に残っている。昔は中央の手すりなどなかったと思うけど、こういう眺めだったのはぼんやり覚えている。

以前紹介した森孝八剱神社と、この大森八剱神社は、場所も近く、名前も同じということで、関係がないわけはない。ただし、創建の年代はかなり離れている。森孝が江戸時代(1826年)なのに対して、大森は平安より前の793年とぐっと古い。社格も全然違う。大森はかつて村社だった。詳しいことはよく分からないのだけど、おそらく分祀して森孝八剱神社を建てたのだろうと思う。
大森八剱神社は、この地方の豪族だった山田の連(むらじ)によって、最初は北八剣に創建されたらしい。
今の場所に移ってきたのは昭和2年のことで、その前は現在大森中央公園になっている場所にあったようだ。
戦国時代、そこには大森城があったと伝わっている。応仁の乱の頃、尾関勘八朗という武将が本拠としていた城で、水野氏の居城である尾張旭の新居城に攻め込んだところ反撃を食らい、慌てて逃げ帰ったところ、次の日水野氏が大森城へ攻めてきて、あっけなく落城してしまったという話だ。遺構は何も残っていない。
水野氏はこのブログでも以前に何度か登場しているけど、新居城についてはまだちゃんと紹介してなかったかもしれない。私がよく行っている尾張旭の城山がそうだ。城レストランの裏手に、少し遺構が残っている。
そんなこんながありつつ、八剱神社は大森の鎮守様として昔から崇拝されてきた神社だった。
私が初めて三重県から名古屋に移り住んだのが大森で、そういう意味ではこの大森八剱神社が氏神様ということになるかもしれない。森孝の八剱神社以上にご無沙汰をしてしまった。

八剱の名前からしても、当然のことながら祭神は、須佐乃男命(スサノオノミコト)だ。
日本武尊(ヤマトタケル)と、天火明命(アメノホアカリ)も祀られている。天火明命は尾張氏の祖神だからということだろう。

古めかしくて、なかなか立派な賽銭箱だ。
横を見ると、昭和5年贈と書かれていた。
初詣ということで、100円投げておいた。いつものように特に願い事はしない。挨拶だけだ。
賽銭は小銭でなければいけない。硬貨を投げ入れて音を立てて、神様に来訪を伝える必要があるからだ。札では音がしないから神様が気づかない。神社を喜ばせるだけだ。
柏手を打つのも、来意を告げるという意味がある。
二礼二拍手一礼が基本で、ここまではできている人が多い。もう一歩進めて本式にするには、両手を合わせたあと、右の手のひらを第一関節分ほど下にずらしてから柏手を打つようにする。左と右とでは左の方が位が高いというのが昔からの決まりで、左手を神様とし、右手を人として、柏手を打つまでは神と人が一体になっていないということを表している。柏手を打ち終わったところで神人は一体となるから、そこで右手を戻して両手を合わせる。願い事をするときは手を前で合わせない。手を合わせて願い事をするのは、仏の前だ。神前では両手は下げて体の横につけて、軽く頭を下げながらする。
ここまできっちり作法を守って参拝すると、神社マニアの人が見ても、おっ、こいつ、やるなと思う。特に女性がやってるとカッコイイ。

長い歳月の間に、場所も移り、時代も移り変わって、あちこちの神社が合祀することになったのだろう。秋葉社や天王社、多賀神社などが境内社として祀られている。
裏手に回ったところには弁財天もあるようだ。

拝殿を左へ行くと、大森天神社がある。こちらは境内社というよりも、半ば独立した格好になっている。
これができた経緯なども、調べはつかなかった。
大森八剱神社の裏手には金城学院がある。合格祈願に訪れる人もいるだろうか。
金城学院というのは名古屋を代表するお嬢様学校で、小学校から大学まであり、どの時点で入学したかによって呼び名が違ってくる。
小学、中学から入ると純金、高校で入ると18金、大学からだと金メッキと言われてしまうのだった。
そのせいもあって、学校帰りの女子大生を見てると笑えるほど格差がある。黒縁めがねをかけた垢抜けない超マジメっ子風の女の子から、完全無欠のチャラチャラ名古屋嬢まで、実に幅が広い。ときどきびっくりするような美人のお嬢様もいたりする。

牛さんもしっかり注連縄を首にかけられていた。マフラーを巻いてるようで、ちょっとオシャレさんだ。
鼻の頭などがテカテカになってるから、祈願に訪れる人は思ってる以上に多いのかもしれない。
なんだか妙に女性的な牛だなと思った。

狛犬は新旧入り交じっていた。こちらは新しいもので、平成元年に奉納されたものだ。
現代的なコマ犬はどうも魅力に欠ける。古いコマ犬が浮世絵だとすると、新しいコマ犬は印刷のポスターみたいだ。彫りの上手い下手ではなく質感が違う。
横の立て札には、石垣、コマ犬等に乗って遊ばないように、という注意書きがあった。
滑り込みで行ってきた初詣だったけど、これで私の中でも正月が終わった。一通り行事もやって、心の引っかかりもなくなった。初夢は思い出せないし、七草粥も食べてないなどということはあるものの、まずは無事に年を越せたことを喜びたい。門松なしでも歳神様はうちにも来てくれただろうか。
明日からはしっかり気持ちを切り替えて、通常の生活に戻したい。というよりも、新しい年の新しい日常を作り直していきたい。改善すべきところは多々ある。
ブログも怠けず、毎日書いていこう。
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