現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
  • 08<<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • >>10
人間的なあまりにも人間的な芥川龍ちゃんを思い出すと泣けてくる
2007年03月26日 (月) | 編集 |
染井霊園入口

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8, 1/400s(絞り優先)



 巣鴨駅で降りた私たちは、おばあちゃんたちでにぎわうとげ抜き地蔵に少し寄ったあと、染井霊園を目指した。夏目先生に会ったなら、次は芥川の龍ちゃんに会いに行かねばなるまい。
 染井霊園もまた、雑司ヶ谷霊園などとともに明治の初期に作られた都営の公共墓地だ。江戸時代は染井村と呼ばれ、建部家と藤堂家の下屋敷があった場所で、植木屋がたくさん集まっていた。そして、この地で生み出された桜が染井吉野(ソメイヨシノ)となった。霊園内の桜はまだつぼみだったけれど、3月の終わりから4月にかけてたくさんの花を咲かせるそうだ。立派な桜の古木が100本ほど並んでいた。墓地には桜並木がよく似合う。
 霊園には高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、岡倉天心などの墓がある。
 芥川龍之介の墓はここではない。隣接するように建つ慈眼寺にある。とげ抜き地蔵方面からなら霊園にぶつかったところを左に折れて道沿いに進んだ左側で、管理事務所の方から入ったなら中央の舗装路を真っ直ぐ進んだ突き当たり正面になる。

慈眼寺入口

 これが慈眼寺の入口だ。何時に閉まるのかは分からなかったけど、門があるから夜は閉まるのだと思う。あまり夜に訪れたい場所ではないけれど。
 そろそろ日没時間が迫ってきて、染井霊園の散策はやめて芥川の龍ちゃんに会いに行こう。ちょっとお邪魔します。

慈眼寺手前

 慈眼寺はもともと深川六間堀(今の新大橋)にあった日蓮宗のお寺で、創建は1615年だそうだ。1693年に猿江に移り、1912年に現在の巣鴨に再移転してきた。深川の水害から逃れるためというのが移転の理由らしい。芥川の家がここの檀家だった関係で龍之介の墓もここに建てられることになった。
 芥川の墓はこの門をくぐらず、左手にある墓地の中にある。少し探してしまったけど、白い案内の棒が建っているのでそれを見つければすぐに分かる。入口にも説明板があるところをみると、やはり墓参りに訪れる人が多いのだろう。斜め向かいには谷崎潤一郎の墓(分骨)もある。

芥川龍之介墓石

 右側が芥川家の墓で、ここには息子の比呂志たちのものだ。龍之介の墓石は左側で変わった格好をしている。これは龍之介が愛用していた座布団と同じ寸法で作られていて、生前に自らデザインしたものだと言われている。ひょろひょろだった自分の体に似合わず、墓石はどっしりしたものがいいと思ったらしい。石には友人の画家小穴隆一の字で「芥川龍之介墓」と彫られている。これも龍之介が遺言で指定したものだ。頂きには芥川家の家紋である桐が浮き彫りされている。
 近づいて墓石にそっと触れてみる。特に何も感じない。そんなものだろう。芥川龍之介の魂はこんなところでうろついたりはしていない。お彼岸なんてのも彼には関係なさそうだ。

 1892年(明治25年)、芥川龍之介は父・新原敏三、母・フクの長男として東京市京橋区入船町で生まれた(上に姉二人で、長女は龍之介7歳のときに亡くなる)。このとき父は43歳、母は33歳。両親ともに大厄の年ということで古くからの風習に従って形式的に捨て子とされ、父親の友人だった松村浅次郎が拾い親となる。辰年辰月辰日辰の刻に生まれたということで龍之介と名づけられた。
 生後8ヶ月のとき、母フクが突然発狂。龍之介は母の実家である芥川家に預けられることになる。以降、母の兄である芥川道章と母の姉フキに育てられた。母親の発狂はのちの龍之介に少なからぬ影響を与えたというのが一般的な説となっている。母親に普通に育てられていたら龍之介の性格は違ったものになっていただろうか。そうだったら小説家になっていなかったかもしれない。
 芥川家は両国にあったので、10代の頃はそこで過ごす。第一高等学校(現在東大農学部のある本郷)、帝国大学(現東大)と進んだ。勉強のできる秀才だった。
 一時内藤新宿に住んだあと、大正2年から自殺する昭和2年までの14年間はずっと田端に住んでいた。なので、芥川の足跡を辿るなら田端が最も色濃い。
 一高で同級生だった久米正雄や菊池寛たちと帝大で同人誌『新思潮』を創刊して小説を書き始める。まだ学生だった大正5年に発表した『鼻』が夏目漱石に絶賛されて文壇デビューを果たす。順風満帆な人生に思われる。
 ひとつ大きな失恋をしたあと、1919年(大正8年)、26歳のときに友人山本喜誉司の姉の娘、塚本文(ふみ)と結婚。のちに三人の男の子が生まれている(比呂志、多加志、也寸志)。
 作品も順調に発表され、漱石の強い推しもあり、作家としての地位を固めていく。
 1921年、大阪毎日新聞海外視察員として中国を訪れたあとあたりから次第に心身ともに衰え始める。1923年には湯治のために湯河原で過ごす。作品の傾向も芸術的なものから私小説的なものへ徐々に変化していった。
 1926年、胃潰瘍、神経衰弱、不眠症などが悪化して、再び湯河原で療養することになる。翌年、義兄の西川豊が放火の嫌疑をかけられて自殺。これによって龍之介が借金を背負うことになり、面倒を見なければならない家族が増え、ますます精神的に追いつめられていくことになる。

 1927年7月24日未明。外は雨が降っている。『続西方の人』を書き上げたあと、睡眠薬のベロナールとジェノアルを大量に飲んで眠りにつく。枕元には開いたままの「旧新約聖書」が置かれていた。
 翌朝、異変に気づいた文夫人は慌てて医者を呼ぶが、龍之介が帰ってくることはなかった。回想録の中でこう書いている。
「私は主人の安らぎさえある顔(私には本当にそう思えました)を見て『お父さん、よかったですね』という言葉が出て来ました」。
 芥川龍之介、35歳の夏の出来事だ。
 自殺する理由を友人への手紙の中で「将来に対する、唯ぼんやりした不安」と説明している。
 前日、育て親のフキに芥川は「これを明日の朝に下島先生に渡してください」と言って一枚の短冊を託している。
「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る」
 これが辞世の句とされる。
 何故夏の暑いときに冬の季語である「水洟(みずばな)」を持ってきたのだろう。実際のところは、これを辞世の句にするつもりはなくて、前に作った句をこのときたまたま思い出して書き記しておいただけだという説もある。真相は分からない。ただ、偶然にしろこれが最後の句となってしまったからには、やはり何らかの解釈をしておかないと釈然としないものが残る。
 いろいろなことが言われているけど、「鼻」と「自嘲」というキーワードからして、私個人としてはそこにわずかに残った未練というものを見た気がした。生きることに疲れて、もうここで終わりでいいと思い定めたものの、鼻の先、つまり夏目先生に誉められた小説や小説家としての自分に少しの後悔や思いが残るという意味ではないだろうか、と。先生の期待に応えきれなかったことの自責の念と自嘲もあったかもしれない。私にはそんなふうに思える。
 芥川龍之介の自殺は文学界だけでなく、世間にも大きな衝撃を与えた。その中のひとりに太宰治がいる。太宰が高校一年のときに受けたショックがのちに太宰を小説家へと向かわせたという一面もあった。太宰は高校時代のノートのあちこちに、この芥川の辞世の句を何度も落書きしている。

 芥川龍之介は、青白くやせた秀才で、皮肉屋で、病弱で、神経質で、冷淡で、非人間的な男だったのか? 世間一般のイメージはそうなのかもしれないけど、実際は全然違っていた。本人は認めたくなくても、根はとても人間的な人間だった。
 やせてはいたけど、案外健康で、元気なときは仕事などで日本全国を回っている。書斎にこもりきりではなかった。講演などで北海道から九州まで、ほぼ全国を巡っているし、名古屋にも来ている。旅先では家族に絵はがきを送り、神社仏閣巡りをしたり、ちょっとした観光旅行などもしている。海では泳ぎ、山登りもたくさんした。
 いろいろと怖いものや苦手なものが多い人で、特に犬を異常に怖がった。散歩の犬が前から歩いてくるとできるだけ離れてやり過ごし、夜に犬の遠吠えが聞こえるとひどくうろたえる。周りで見ているとおかしくて笑えたというから相当なおびえようだったらしい。自分では前世で犬殺しでもしたんだろうかと真面目な顔で語っていたそうだ。
 枝が揺れる様子が怖いといい、嫌な夢を見たといって顔をゆがめ、友人で兄弟弟子の内田百間がいつもかぶっている山高帽を怖がり、頼むからそれを捨ててくれなどと言っていた。
 どこへ行くにも左手に本を持っていた。何かのポーズが嫌味かと思うとそうではなく、文字通り本が手放せない性格だったのだ。あるとき記者が一日に何ページくらいお読みになるのですかと訊ねると、だいたい200ページくらいと答えている。英文ならね、と。日本語なら倍くらいだそうだ。相当読むスピードが早かったようだ。
 スポーツは大の苦手で、まったく興味もなくてしたことがなかった。ただ一度、菊池寛の家でピンポン大会が開かれたとき、どうしても川端康成と卓球対決をしなければならなくなったことがあった。川端康成も芥川に負けず劣らず運動音痴で、ふたりのピンポンは見るも無惨な有様だったらしい。若い川端康成がギョロ目をむいて必死に球を打ち返し、それに対してイヤイヤ格好だけしてる芥川という図は、それはもう見物だっただろう。
 夏目漱石の葬式では、式が終わって会葬者がぞくぞくと帰っていく中、龍之介は突っ立ったまま、片手でハンカチを目に当ててすすり泣いていた。横では友達の久米正雄が、いつまでも泣きやまない芥川に付き添ってしきりに慰めていた。

 昭和2年7月27日、午前11時。田端の自宅で近親者、知人の告別式。午後3時から一般の告別式が谷中斎場で行われた。集まった千人あまりの人々に声はなく、表通りには二千人の人々が押し寄せ、交通巡査が整備に駆り出された。
 弔辞は先輩として泉鏡花が、友人として菊池寛が、後輩として小島政二郎、文芸協会を代表して里見氏がそれぞれ朗読した。読み上げる前から泣き出した菊池寛。
「君が自ら選び自ら決した死について我等何をかいわんや、ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂えるを見て甚だ安心したり、友よ、安らかに眠れ! 君の夫人賢なればよく遺児をやしなうに堪えべく、我等また微力を致して君が眠りのいやが上に安らかならんことに努むべし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみに蕭条たるを如何せん。」
 午後4寺5分、遺体を乗せた霊柩車は染井の火葬場に向かった。文未亡人と幼い三人の息子がそれに続く。骨は慈眼寺に葬られ、本人の希望により戒名はなく、墓碑にも「芥川龍之介之墓」とだけ記された(寺の過去帳にのみ「懿文院龍介日崇居士」とされる)。

 芥川龍之介の写真を見ると、とても懐かしい気持ちになる。昔の友達の古い写真を見るように。そして、気軽な調子で声をかけたくなる。やあ、久しぶり、龍ちゃん。元気だった? と。
 あれからけっこう時間が経ったけど、そっちでは何をしてますか? こちらは相変わらずで困ってしまいます。
 みんなきみのことが好きだったのにね。もったいないことをして。きみは人に好かれるなんてことをちっとも望んでなかったかもしれないけど、それでもみんなに好かれていたということだけは忘れないでね。
 それじゃ、元気で。また会おう。


この記事に対するコメント

一言だけ

よかったっす、今日の日記


【2007/03/27 23:32】 URL | ただとき #- [ 編集]

龍ちゃんイメージアップ作戦
★ただときさん

 こんにちは。
 ひと言感想、ありがとうございます。よかったです、喜んでもらえて。
 芥川の龍ちゃんについて、少しでもイメージアップできれば嬉しいです。
 けっこう面白い男だったんですよ(笑)。

【2007/03/28 05:46】 URL | オオタ #dcJU4M0Q [ 編集]


この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://okuromieai.blog24.fc2.com/tb.php/552-06b7386f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

オオタ(マサユキ)

Author:オオタ(マサユキ)
ブログランキング・バナー(FC2)
ブログランキングに参加してます
Dry&Wet(ホーム)



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する