現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
  • 08<<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • >>10
遅れて行った太宰治の三鷹に影はなくとも今も胸の内に
2007年03月27日 (火) | 編集 |
太宰治旧宅跡

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3, 1/125s(絞り優先)



 新宿からJR中央線のオレンジの電車に乗って三鷹で降りる。私にとっての三鷹は太宰治の町であり、太宰治というと同時に三鷹を思い浮かべる。戦争中一時疎開していた時期をはさんで約9年間、太宰治は三鷹で暮らし、三鷹で死んだ。
 前年山梨の甲府で再婚した太宰治は昭和14年、妻とともに三鷹へと移り住んだ。30歳のときだ。
 今でこそ三鷹はそこそこの賑わいと静かな住宅地からなる暮らしやすそうな郊外だが、当時は店もまばらで上下水道もないような田舎だったという。中央線沿線もまだまだ畑や田んぼばかりで舗装路さえなかったそうだ。その分土地や家賃も安く、この時期この場所には多くの作家たちが暮らしていた。太宰治もなんとなくそんな気分に惹かれてこの町を選んだのかもしれない。
 太宰治が死んでから60年近い月日が流れた。町並みは大きく様相を変え、もはやあの頃の面影はほとんど残っていない。玉川上水もすっかりおとなしくなり、太宰治の家も、通った店も、歩いた道も、みんな姿を変えた。残っているものといえば、三鷹陸橋と「井心亭(せいしんてい)」の百日紅(さるすべり)くらいのものだろう。あとは碑や跡地のプレートがあるばかり。
 上の写真は太宰宅があった場所で、「井心亭」のちょうど向かいになる。ずっと奥に入ったところに家があった。今はアパートのようになっていて家そのものは残っていない。案内のたぐいもないので、何も知らずに見つけることは難しい。このときはたまたま近くの人が声をかけてくれて教えてもらえて分かったのだった。太宰の死後、人手に渡ってしまったのだと話してくれた。最後に「ご苦労様です」と声をかけられたのがなんとなく照れくさくてこそばゆかった。なんだか自分が巡礼者にでもなったような気がして。
 戦争中、ここにも空襲があったようで、『薄明』の中で「東京の三鷹の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。」と書かれている。

井心亭のサルスベリ

 井心亭の道路沿いの垣根に百日紅の木が植えられている。太宰治宅の庭にあったもので、ここに移植して今もまだ生き続けている木だ。小さいプレートもかかっている。「井心亭」というのは茶室というか寄席などに使われる日本家屋で、ここ自体は太宰治とは関係ない。ただ、やはりこの地に訪れる人が多く、百日紅の場所を教える窓口のようになっているようだ。
 木と会話ができれば当時のエピソードをたっぷり語ってもらうところだけど、今のところその技術は発明されておらず、私自身そういうたぐいの特殊能力を持ち合わせていないのが残念だ。百日紅からしてみればしゃべりたいことがたくさんあるのかもしれないけれど。

 その他ゆかりの地巡りとしては、玉川上水入水地、行きつけだった「美登里鮨」、いつもウイスキーを買っていた「伊勢元商店」(もうすぐなくなるとか)、仕事場として使っていた料理屋「千草」の跡(プレートのみ)、山崎富栄が借りていた野川宅(現在は「永塚葬儀社」)などがある。
 ただし、平成19年の今、太宰治が暮らした息づかいをこの地で感じるのは難しい。現在の三鷹の町並みに黒マントの太宰治は似合わない。あの頃も浮いていただろうけど、今は違和感を通り越して滑稽になってしまうだろう。60年の歳月というのは思いのほか長かったらしい。
 それでも休日ともなると、太宰治の面影を求めて太宰ファンがこの町を訪れる。あきらかに住人ではない様がひと目見るとそれと分かるという。マップを片手にキョロキョロしたり、玉川をじっと見つめていたりなんてのは住人ではあり得ない行動だから。それに、感慨に浸っている様子がありありと見て取れるそうだ。三鷹における太宰ファンは、アキバにおけるオタクと同じくらい分かりやすい。
 特に6月19日、太宰治の命日であり誕生日でもあるこの日は、大勢の人間が全国から集まってくる。かつてほど盛況ではないにしても、「桜桃忌」に一度は行ってみたいと思っている太宰好きは多いに違いない。今の時代でも、定年退職後のおじさんから中高年のおばさまグループ、20代、30代、10代の男女までもがお墓参りにやって来るというからたいしたものだ。その日の墓前には、山盛りの桜桃や太宰治が好きだった煙草や酒が置かれるのだった。

禅林寺の桜とお墓

 三鷹駅から太宰治の墓がある禅林寺まではけっこう歩く。ゆっくり歩いて20分近くかかっただろうか。
 ここの桜は他よりも早くて、ちらほらと咲き始めていた。今ごろは2分咲きくらいになってるかもしれない。太宰治の墓は、ここから真っ直ぐ進んだ左手にある。写真でおばさまたちが立っているあたりだ。このときはちょうど太宰巡りの団体おばさまたちとかち合った。森鴎外の墓は斜め向かいあたりにある。
 どうして太宰治の墓がここにあるかといえば、家が近所だったからというだけではなく、作品の中で太宰治がこんなことを書いているからだ。
「この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたなら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。」(『花吹雪』)
 これを本人の希望ととって、奥さんがここにお墓を建てたのだった。もうひとつには、若い頃から実家にさんざん迷惑をかけて故郷青森の墓に入ることを拒否されたという事情もあった。

 墓の前に立ち、とうとうこの場所にやって来たかとしばり感慨にふける。『人間失格』を読んだ19のときから今まで、思えば来るまでにずいぶんかかってしまった。太宰さん、遅くなってすみません。でも、やっと来ることができました。ありがとう。
 お墓参りをして参った方がお礼を言いたくなるなんてのは、私にとって太宰さんくらいのものだ。そしてそれはなんだか嬉しいことだった。

太宰治墓石

 墓石には本名の津島修治ではなく、ペンネームの太宰治とだけ彫られている。恩師である作家井伏鱒二の字だそうだ。戒名は文綵院大猷治通居士。
 ペンネームの由来についてはあれこれ言われいるけど、本人談の万葉集をめくっていて太宰という字が目に入ってこれでいいやと決めたというのが実際のところらしい。治は修治はどちらもおさめるだから治の一字でいいか、と。後付けでいろいろな理由が言われているだけだろう。一説では、津島修治だと津軽弁で「つすますうじ」となまりがひどくなるので、なまらない名前として太宰治にしたなんてのもある。太宰治はなまりがコンプレックスとして強くあって、一所懸命標準語をしゃべろうとしてうまくいかず、一時は何故か名古屋弁をマスターしようとしたらしい。そういうちょっとトンチンカンでお茶目なところがある。
 太宰治という人は、生まれついてのエンターテナーだった。悪く言えば道化者。自己演出によるイメージ戦略がときに裏目に出て笑えてしまうこともある。自殺未遂が5回で、そのたびに生き残ったというのもある意味では笑えない笑い話だ。やけっぱちな論理を振りかざして強がったかと思うと次の瞬間にはひどく落ち込んで死にたい死にたいと言ってみたり。大学の授業をさんざんサボって、ついに退学が決まったのにあえて試験を受けて「甲斐なき努力の美しさを思う」なんて書きながら、酒を持って教授のところへ行ってどうにか単位をもらえないかと泣きついたりする。
 高校時代はまったく勉強もせず、小説を書きながら親の金を使って芸者遊びばかりしていた。二列に7つずつもボタンのついた異様に長い外套を着て町を歩き回ったり、新聞に載ったこともあった。
「県議津島文治氏の令弟「カフェーみみづく」の便所に堕つ」
 いくら田舎町のこととはいえ、酔っぱらって便所に落ちたことが新聞沙汰になるとは太宰さんもついてないというか、どうやっても人に注目されてしまう人間だったのだろう。
 自他共に認めるサービス精神のかたまりのような人でもあった。小説を書くのも自分のためというより人を楽しませたいという思いが強かったのだと思う。自分にはその力があるのだから、せめてそれで人の役に立たなければという使命感だったかもしれない。よく引用していたヴェルレーヌの「撰ばれてあることの 恍惚と不安と二つ われにあり」というのもその表れだ。
『正義と微笑』の中でも書いている。
「誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」僕の、生れた時からの宿命である。 …全く、それ一つのためであった」
 人は信じないかもしれないけど、私の中では太宰治と明石家さんまが重なる部分がかなりあるのだ。

玉川上水

 橋の上から玉川上水の流れを見下ろす。サラサラと流れるこの水量ではとても人は死ねそうにない。深さも膝上か腰まであるかどうか。かつて人喰い川と呼ばれたときの姿はもうここにはない。当時は実際、自殺スポットで、年間20人から30人くらいがこの川で命を落としていたのだという。その遺体のほとんどが上がらなかったというから、想像すれば今でも川底には……いや、想像するのはやめておこう。

 1948(昭和23年)年6月13日夜半、愛人山崎富栄とともに青酸カリを飲んで入水。
 山崎富栄の家に残された遺書を発見した太宰夫人は、6月14日三鷹署に捜索願を出す。ふたりの写真を並べた前には線香が供えられ、好きだった伊藤左千夫の歌「池水は 濁りに濁り藤なみの 影もうつらず 雨ふりしきる」と書いた色紙が立てかけられていた。
 同日、東京都水道局久我山水衛場で、男ものの桐コマ下駄と女ものの赤緑緒の下駄が片方ずつ発見される。15日朝、玉川上水土手で、山崎のものと見られる化粧袋が見つかる。中には小さい鋏と青酸カリの入っていた小瓶などが入っており、近くには草を踏みしめて土手を下った跡が残っていた。警察が下流を捜索するも、増水で捜索は困難を極め、夕方6時に打ち切られた。
 6月15日、新聞に初めて太宰治失踪の記事が載る。警察の捜索にもかかわらず遺体は上がらない。
 6月16日、朝日新聞朝刊に太宰治情死の記事が大きく掲載された。「特異な作風をもつて終戦後メキメキと売出した人気作家太宰治氏は昨報のごとく愛人と家出、所轄三鷹署では行方を探していたが前後の模様から付近の玉川上水に入水情死したものと断定、玉川上水を中心に二人の死体を捜索している」
 夫人は家にこもったきりで、友人の豊島与志雄、林芙美子、伊馬春部などが太宰の家につめかけて応対をしている。一方で亀井勝一郎や豊島与志雄などは人夫と共に太宰捜索を行っている。この日も日没で捜索は終了となった。
 翌日、上水にもかかわらず水を止めてまで探してもなお見つからない。太宰治も永遠に川底に沈んでいることを望んでいるのだろうとあきらめかけた6月19日の朝、入水地点から1キロ半下流の新橋下の川底の棒杭に、抱き合ったまま引っかかっている死体を通行人が発見して三鷹署に届け出た。
 太宰治はワイシャツにズボン姿、山崎富栄はツーピース姿で、ふたりは固く抱き合ったまま赤い紐で結ばれていた。死因は水死であった。

 太宰治の心中事件は世間に衝撃を与え、たくさんの人がそれぞれに受け止め、いろんなことを語った。心中そのものについても殺人説や狂言説などさまざまなことが言われ、当然のように太宰治側の人間に山崎富栄は悪者として散々叩かれた。
 その山崎富栄の遺書にはこう書かれていた。
「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません。骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。
 御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
 せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。」
 原因や理由がどうだったのか、心中の真相がどうだったのかを今さら言っても仕方がないし、私自身はあまり言うことはない。結果として自殺という形は、のちのちのことを考えて必要不可欠な自己演出だったと思ったりもする。もし60、70まで生きて寿命で死んでいたら、太宰治の小説や太宰治という人の存在が今ほど深く私たちの胸に届くことはなかった。
 享年39歳。太宰治としての創作期間15年、総作品数141作。本人にとっても、読者である我々にとっても、まずは文句のないところだろう。欲を言えばきりがない。
 私は、『津軽』で完全にノックアウトされてしまった。あれには完全にやられた。あの作品の中には太宰治の最良の部分がある。

 この世に太宰治好きの人間は数知れず。その多くが自分こそが一番の理解者で、太宰治好きに関しては誰にも負けないと自負していることと思う。私も太宰さんに対しては特別な思い入れがあるけど、対抗心みたいなものは持っていない。自分が一番だなんて思ってないし、太宰治論を戦わせたいなどと考えたこともない。ただ、まったく文学にも小説にも興味がなかった私に素晴らしい世界があることを教えてくれた太宰治という人にとても感謝してる。それだけは確かに言える。恩人と言ってもいい。だから、夏目の金ちゃんだったり、芥川の龍ちゃんのように太宰の治ちゃんとは言えない。やっぱり太宰さんという呼びかけがしっくりくる。
 太宰治を卒業したわけではないけれど、20代の前半に全集で全作品を読み終えて、もうこれでいいと思った気持ちは今も変わっていない。たぶん、この先もまとめて読むことはないんじゃないかと思う。短編や随筆をパラパラ拾い読みすることはあっても。たぶん、自分が年を取ってから読み直せばまた新たな発見や感動があるのだろうけど、それよりも私としては20代の自分と太宰治の関係性を大切したいという思いの方が強い。
 今回、太宰さんゆかりの三鷹へ初めて行くことができて、更に満足感というか完結感を得た。そして、やっぱり太宰さんを思うとき、私の中で感謝の気持ちがいっぱいに広がる。だから私は言いたい、生まれてくれてありがとう、と。


この記事に対するコメント
さよならだけが人生だ
オオタさん

中学生の頃に読んだ太宰さんと
年齢を重ねてから読んだ太宰さんでは
受け取り方が違っていました。
自意識が肥大してきて、抱えきれなくなって放棄した時
初めて太宰さんの作品は少し悲しい顔をしつつ笑いながら読むものだと
私なりに感じたものです。
今は廃版になっているのかな?本の名前は忘れたのだけど
「太宰からの手紙」だったか、その内容を見て、この人も自分の自意識を
笑いとばして作品にしてきたのだと確信いたしました。
「苦悩を売り物にしている」と批判した友人に対しても。
優秀なくせにワザとダメダメになってるとこなんかもう
何もしなくても存在そのものが人を傷つけてしまう。
生まれてきただけで人に詫びたくなるような存在だったと自覚しているんでしょう。
と勝手に解釈してみる私の太宰感。

ちなみに鎌倉のほうにも文豪の墓はありますぜ兄貴。

【2007/03/28 00:00】 URL | magnolia #AYRMQa7Y [ 編集]

ゴールデンウィークは鎌倉へ
★magnoliaさん

 花も嵐も踏み越えてのmagnoliaさん、こんにちは。
 春はサヨナラの季節ですね。
 好きな作家の墓巡りをしてなんだか少し感傷的な春です。
 名古屋の桜はまだまだ遠い。

 太宰治を好きと言うのは、尾崎豊を好きというのと似た照れくささがありますね。
 両方好きなんだけど。尾崎豊も太宰治を読んでたし。
 でも、若いときに読んで卒業してしまうのはもったいない。自分が大人になると、また違った思いを抱くようになりますもんね。
 そして、子供より親が大事と思いたい、なんてことを悪用する人が出てくるのです(笑)。

 鎌倉お墓巡りツアーですか。なんだか、気が重いなぁ(笑)。
 鎌倉はかつて文士の町でしたもんね。私も憧れたことがありました。東京で成功したら鎌倉に住もうとかね。(^^;
 鎌倉は実際どうなんだろう。この変な恐怖感みたいなものは現地に行けば払拭されるんだろうか。嫌な予感というのではないのだけど、なんとなく軽い気持ちでは行けない私です。
 でも、ゴールデンウィークに行こうかな。そのときなら人も大勢いるし、どさくさに紛れて鎌倉に挨拶してこよう。

【2007/03/28 05:53】 URL | オオタ #dcJU4M0Q [ 編集]

次は鎌倉
こんばんは。

お墓参り三部作、お疲れ様でした!
さすが、元文学青年ですね。
・・・とても勉強になりました。
あれ?現役だって言いたいですかぁ?(笑)

いっぱい歩きましたが、良い思い出ができましたよね。
ありがとうございました。(^^)
次は、鎌倉ですかい?

ところで、オオタさんは、お墓の前で、なんてご挨拶していたのですか?
私ですか?
うふふ・・・ヒミツ・ヒミツ。
お祈りしたことが、現実になったら教えてあげますね。
だから、これからもブログ頑張って書いてくださいね。(^^)

では、またね。

【2007/03/28 06:02】 URL | mao_cat #- [ 編集]

参りました
オオタさん

井伏さんと太宰さん仲良かったのか悪かったのか
本人同士のみ知ることでしょうが気になります。
私も日本史上好きな人の墓参りには良く出かけました。
ここか、ここに眠っていらっしゃるのか、、と感慨深いものがありましたが
おそらくそこには魂魄の魄しか残っていないだろうから、実際その人が立って
見たであろう景色を見ながら手を合わせたりしていました。
そういう点では鎌倉はベストスポットかも。

ご一緒に行かれた方も解説者がそばにいてさぞ面白かったことでしょう(笑

【2007/03/28 20:54】 URL | magnolia #AYRMQa7Y [ 編集]

おかげで3部作完結
★mao_catさん

 こんにちは。
 東京お彼岸お墓参りツアー3部作は、無事完結することができました。
 どうも、どうもお疲れ様でした。(^^;
 さすがにあの歩きは厳しかったですね(笑)。
 季節が暖かいときでよかった。寒かったり暑かったりしてたら、途中で力尽きていたことでしょう。

 でも、きっちり回ることができたおかげで、3人とも巡ることができてよかったです。
 この3人は、流れで書く方が分かりやすいですからね。
 思い入れが強すぎてちょっと力が入りすぎたかもしれないけど(笑)、楽しんでもらえて何よりでした。(^^)
 毎日あれは書けない。(^^;

 次は鎌倉お墓参りツアーかぁ。
 って、どんだけ年寄り臭い趣味だ(笑)。
 けど、意外と同じ趣味の人がいて、少し安心しましたね。はは。
 鎌倉は誰がいるんだろう。また予習しておかなくちゃ。
 東京編第二弾もあるかな。
 新撰組ゆかりの地巡りもまだしてないし。

 それにしても、お墓の前で何をお祈りしたんですか?
 お墓でお祈りって(笑)。
 私は当たり障りのない挨拶などを。(^^;
 ああ、でも、あの地に行けたことは今さらながら感慨深いものがありました。

【2007/03/29 03:51】 URL | オオタ #dcJU4M0Q [ 編集]

趣味はお墓巡りです
★magnoliaさん

 こんにちは。
 参ったか!
 って、私に参ったんじゃなくて、お参りしたってことだったんですね。ちょっと残念。magnoliaさんにしては殊勝すぎるなと思った(笑)。

 井伏鱒二と太宰治はどうだったんでしょうね。
 井伏鱒二は大人のイメージがあるけど、案外そうでもなかったのかな。
 太宰治の一方的な被害妄想でもないだろうし。
 しかし、わざわざ見つかるように遺書の下書きに井伏さんは悪人ですって書くあたりが太宰治特有の演出ですよね。(^^;

 magnoliaさんさんのお墓アプローチは、やっぱり好きな日本史方向からだったんですね。
 これまではお墓って考えたことなかったんだけど、行ってみるとこれはいいもんですね。趣味になるなと思いましたもん(笑)。
 ゆかりの地巡りとはまた違った感慨がありますね。
 たかが数十年でも、されど数十年。近くて遠く、遠くて近い。
 ちなみに、うんちくは最小限にとどめてるつもりです(笑)。

 次は鎌倉か。何が起こるか、何も起こらないのか。
 行っていいものなのかよくないものなのか、鎌倉は怖〜いのです。(>_<)

【2007/03/29 04:09】 URL | オオタ #dcJU4M0Q [ 編集]


この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://okuromieai.blog24.fc2.com/tb.php/553-a04657d8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

オオタ(マサユキ)

Author:オオタ(マサユキ)
ブログランキング・バナー(FC2)
ブログランキングに参加してます
Dry&Wet(ホーム)



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する