 Nikon D50+SIGMA 17-70mm F2.8-4
円教寺の前後編では仕えなかった写真がけっこうあるので、今日はそれらを載せるだけ載せておくことにする。貧乏性だからせっかく撮った写真を捨て置くのがもったいない。実際は一ヶ所で何十枚も撮っているのだけど、全部仕える写真というわけではない。 円教寺はとにかく静かなお寺だった。それは単に人が少なくて話し声や物音が聞こえないとかそういうことではない。静謐が存在するという表現がぴったりの空間だった。まるで音という音が境内の周囲に吸い込まれてしまうようにさえ感じられた。 今日並べた写真から、そんな無音な様子が伝わればいいと思っている。
 ここへ行ったのが平日の夕方というのはいいタイミングだった。もし、休日の昼間だったら、もっと人も多くて雰囲気も違っていただろう。私が受けた印象もまったく別のものとなっていたかもしれない。 木々の間から漏れる夕方の斜めの光は、いつも見慣れた近しいものだ。
 別の種類のクモの巣が途中で合体して同居状態になっていた。暗黙の了解でお互いに納得しているのだろうか。 ちょっと面白かったのは、それぞれが裏表別の面にいたことだ。こっち側にかかった獲物は自分のものなんていう取り決めがあったりするかもしれない。
 お寺に絵馬というのは少し違和感がある。そもそもお寺に願い事をする習慣が私にはないからだろうか。願い事は神様にするもので、その場合は神社へ行く。お寺でも手を合わせるけど、いつも挨拶をするだけだ。神社と寺は、はっきり別のものという意識が私の中にある。 それでも、手を合わせて頭を下げることができるようになった自分の成長を喜びたい。若い頃はそんなことは屈辱的なことだと思っていた。人は成長できるものだ。成長すれば謙虚になれる。頭を下げることは決して卑屈なことなんかじゃない。
 お堂の裏手は深い山になっている。山には多くの生き物たちが生息しているそうだ。 心静かにしていると、自分も自然の一部として同化していくのが分かる。現代の日常生活は、音と光と映像の刺激が強すぎて、人間の感覚が鈍くなっている。静かな山寺は、人間の本来持っている感覚を取り戻すことができる場所でもある。
 堂の中はひときわ静かだった。扉は開け放たれているのに、この中は日常と隔絶しているように感じられる。
 ここへ来て見かけた数少ない人たち。写真を撮るだんなさんとそれを見守る奥さん。それもまた無言劇に見えた。そう、ここはサイレントの世界だ。
 まるで絵のようなというのもありふれた比喩だけど、紅葉の季節はもっといいのだろう。 円教寺は紅葉の寺としても知られていて、シーズンになると大勢の人が訪れるという。そのときはそのときで華やいだ雰囲気が楽しそうだ。
 仏像がおさめられたガラスケースに窓の外の景色が反射して、不思議な光景となった。プロジェクターで映した映像のようだ。光と角度と映る景色によってはもっと面白くなりそうだ。
 そろそろ日没が近づいて帰る時間となった。バス停でバスを待ちながらふと空を見上げると、秋らしいうろこ雲が空を覆っていた。うろこやイワシというよりも、私は流氷を連想する。北海道ではそろそろ雪が降って、オホーツクから流氷が流れてくる季節になった。本州でも山の紅葉が始まっている。秋の日暮れは早く、秋の深まりもまた早足だ。
 帰りのひかりで止まった岐阜羽島駅。めったに止まらないので記念写真を撮っておいた。静かさの写真の締めくくりは、帰りの静かなる新幹線駅となった。
人と場所の関係は一方的なものではない。人がどんなにその場所へ行きたいと思っても、その場所から呼ばれなければ行くことはできない。特に神社仏閣や名所旧跡などの特別な場所はそうだ。簡単に言えば縁ということになるのだけど、縁のない人と場所が出会うことはない。 だから、行けた場所に関しては、着いたらまず感謝の言葉を言いたい。呼んでくれてありがとうと。タイミングも多くの場合、そのときでなければならなかった必然性がある。今回の私の姫路行きもそれを感じた。去年でもなく、来年でもなく、今年のこの時期だったのだろう。どういう理由だったのかは、だいぶあとになって分かることだ。 姫路は魅力的なところだった。いい印象だけを私の中に残した。また行けるか、もう二度と行けないか。もう一度行ける日を期待しながら、今回の姫路編はこれにて終了となる。 おしまい。
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