現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
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松坂屋は明智光秀が作ったという風が吹けば桶屋が儲かる的な話<揚輝荘2>
2008年01月18日 (金) | 編集 |
揚輝荘2-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di



 松坂屋の創始者・15代伊藤次郎左衛門祐民の別邸「揚輝荘」見学レポートが、一回書いただけでそのままになっていた。そのすぐあと花鳥園へ行って、そちらが先行してしまった。もう忘れかけている人も多いと思うけど、ここらで揚輝荘シリーズを再開したいと思う。花鳥園の写真もまだだいぶ残っているけど、それはちょっと置いておいて、まずは揚輝荘を完結させてしまいたい。全部で4回か5回くらいになる予定だ。

 名古屋では一番の老舗デパートとして知らない人はいない松坂屋も、全国的な知名度としてはどうなんだろう。銀座にもあるし、大阪の高槻にもあるから、本州では一応知られた存在ということになるのだろうか。名古屋では絶対的、圧倒的な力を持っている。いや、持っていたというべきか。
 名古屋では昔から五摂家というのがあって、松坂屋、名古屋鉄道(名鉄)、東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)、中部電力、東邦ガスの5社がこの地方での名門といわれ、地元では大きな発言力を持ってきた。あのトヨタでさえこれら5社の仲間に入れてもらえず、豊田市という郊外にとどまったくらいだ。
 この地方のお中元、お歳暮は松坂屋と相場が決まっていて、三越や高島屋などの包装紙にくるまれたものが送られてくると、バカにしてるのかと本気で怒る人もいるくらいだ。中身の問題ではない、格の問題だというわけだ。
 しかしそれも近年、だいぶ様変わりしてきた。松坂屋も大丸と合併、東海銀行もUFJに飲み込まれた。一方ではトヨタが世界のトヨタとなり、名古屋駅の一等地にミッドランドスクエアという超高層ビルを建てた。もはや松坂屋神話は崩れたといってもいいのかもしれない。名古屋でも若い世代では松坂屋の包装紙へのこだわりは消えてなくなりつつある。

 松坂屋の歴史をさかのぼると織田信長に辿り着く。本能寺の変のとき、伊藤蘭丸祐広(すけひろ)・祐道(すけみち)父子は、揃って蘭丸を名乗り(信長は蘭丸という名前が好きで二人の名付け親になっていた)、信長の小姓として仕えていた。そのとき19歳だった息子の祐道の禄が八百石というからかなりのものだ。単純に一石を現在の貨幣価値に換算するのは難しいのだけど、一石10万円としても年収8,000万円ということになる。
 本能寺の後、新たな主君に仕えることなく清洲で浪人生活を送っていた祐道は、1611年、48歳にして突然武士を捨て、商人になることを決意する。妻と次男の祐基を連れて、名古屋の本町に小さな呉服小問物問屋を開業した。これが後のいとう呉服店であり、松坂屋の前身となる。
 祐道は大阪夏の陣で豊臣方について戦死するも、息子の祐基が跡を継ぐこととなる。名古屋の茶屋町にあらたな呉服小間物問屋を開いたのが1659年のことだった。
 その後、江戸上野の松坂屋や、大阪のゑびす屋呉服店を買い取ったりして、商売は順調に伸びていく。店の名前はいろいろ変わったりしつつも最終的に松坂屋に統合されたのは、江戸で一番知名度がある名前だったからという理由のようだ。
 時は流れて初代から数えて15代目の伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)が名古屋の覚王山に建てた別邸が、今回紹介している「揚輝荘」だ。
 最初は、1918年(大正7年)、現在松坂屋本店がある矢場町にあった揚輝荘座敷と、徳川邸から有芳軒をこの地に移築したのが始まりだった。
 それから約20年にわたって増築が繰り返され、最盛期には敷地1万坪の中に30数棟の建物が建っていたそうだ。その当時は、この地方の財界人、政治家、皇族などが多数訪れ、華やかな社交場となっていたという。
 現存するのは南北に分断された3,000坪の敷地と数棟の建物だけで、建物の多くは空襲で焼けてしまって古いものはほとんど残っていない。
 戦時中は焼け残った建物を米軍に接収されたり、戦後は松坂屋の独身寮などに使われたりもした。
 平成18年に名古屋市に寄贈されて、現在は少しずつ整備が進んで一部が一般公開されている。

 前回は伴華楼(バンガロー)の内部を紹介した。今日はその外観などをガイドツアーで回った順にレポートしていくことにしたい。
 上の写真がその伴華楼の外観だ。建物の基本部分は尾張徳川家から譲り受けた茶室付きの和室で、そこに鈴木禎次設計の洋室が増築されている。

揚輝荘2-2

 このあたりまで鈴木禎次の設計なのか、家主の趣味なのか、いろいろと凝った装飾が施されている。貼り付け細工が特に好きだったようで、ここ正面玄関テラスは五色石で飾られている。他にもこの細工はあちこちで見られるから、やはり鈴木禎次設計ということではなさそうだ。
 けど、これは現代でも通用しそうなデコレーションだ。古めかしくなくて、むしろ新しい感じがする。素っ気ないコンクリート剥きだしの塀にするくらいなら、こういう石でも貼り付けておけばセンスがよく見える。石は買うと高いから、河原で拾ってくればいい。逆に貧乏くさいって?
 二階洋間外壁面などはサワラのうろこ壁になっていて、暖炉用の煙突もくっついている。

揚輝荘2-3

 藤棚もただの藤棚では終わらない。隅々まで意志が感じられるのがこの屋敷の特徴だ。何か手を加えないと気が済まない性格だったようで、どこもかしこも何かしている。素材そのままの部分がない。
 凝り性といってしまえばそうなのだろうけど、この精神は商売の方に通じているに違いない。創意工夫というのは、どんな細かいところにも手を抜かないことだというのがここを訪れた人間に対しても教えとなっている。

揚輝荘2-4

 別宅の庭にここまで本格的なお稲荷さんを建てているところはそうはないんじゃないだろうか。
 この豊彦稲荷は、 昭和初期に松坂屋京都店から勧請されたもので、京都仙洞御所にあった御所稲荷(豊彦稲荷)が本社だということが最近分かったそうだ。
 朱色の柱は一般から寄進されたもので、ここの景観とよく合っている。名古屋市に寄贈されたときに、宗教色が強いから取り壊した方がいいのではないかという意見が出たそうだけど、そういうことはしない方がいい。何かよくないことが起きそうだ。それでも、名目上はこの部分をマンションの敷地にしたようだ。市が稲荷さんを所有するのは確かにまずいといえばまずいかもしれない。

揚輝荘2-5

 屋根付き橋(亭橋)の白雲橋。
 北庭園は京都の修学院離宮を模して作られていて、この橋は本家の千歳橋にならったものだ。こちらの方が大きく作られている。
 屋根は緑釉瓦で一部が銅版葺きになっている。千歳橋はこけら葺だから、見た目の印象は違う。
 まだまだ整備されてなくて周囲は荒れた印象だけど、今後整備が進めばここの見所の一つとなるだろう。たまに橋の上を舞台として舞踊などのイベントが行われているそうだ。

揚輝荘2-6

 横から見るとこんな感じ。なかなか立派で美しい姿をしている。石垣風の脚も、全体の形も、写真で見る修学院離宮の千歳橋によく似ている。
 池も周りの木々も草も乱れ放題だから、まだまだ手を加えないといけない。少人数でコツコツ手入れをしてるようだけど、これだけの規模となると市が予算を組んで整備事業にしないとなかなか終わらないんじゃないか。現状では、ようやく建物の一部を見学に耐え得るように整備したといったところだ。

揚輝荘2-7

 白雲橋の向かいには野外ステージがある。石張りの半円型客席が設置された円形ステージで、ここはまだ手つかずのままだ。
 かつてはここでどんなものを演じ、誰が観ていたのだろう。

揚輝荘2-8

 長らく使われていなかったようで、ステージそのものも残っていない。古い写真を見ると、なかなか立派なものだ。大がかりな芝居などはできないにしても、漫才くらいなら充分できる(そんなものはやってないと思うけど)。

揚輝荘2-9

 こんな小さな橋にも石の装飾がなされている。この下にはかつて小川も流れていたようだ。
 左手の竹林には、名古屋では珍しいリュウキュウチクが生えているというし、野生のヒトツバタゴもあるそうだ。この地域ではどちらもかなり貴重なものといえる。
 この右手には信長塀があって、ちょっと驚いた。まさか熱田神宮から持ってきたものだろうか。あるいは、あれをまねて作ったのか。けど、本物であったとしてもここのことだから驚くには値しないのかもしれない。

揚輝荘2-10

 ここから先は、見学ツアーの人間だけが立ち入れる南園に向かうことになる。何しろ間にあるのは高級マンションだ。一般の人間が自由に出入りされては困るということで、鍵のかかった扉で仕切られている。見学ツアーのときだけ許可を得ていて通路を渡れることになっているようだ。静かに歩いてくださいという注意がある。
 億ションは外観からして違う。六本木ヒルズを手がけたところの仕事なんだとか。

揚輝荘2-11

 名古屋人にはお馴染みの松坂屋のロゴマーク。大丸との合併後はロゴも変わったから、旧ロゴマークとなってしまった。1926年から使用されていたデザインらしい。
 これは玄関のアプローチの踏み石だったか、違ったか。自分のところのマークを踏んで家の中には入らないか。かなり大きなものだ。

 このあとツアーは、南園の聴松閣内部の見学へと移っていく。そこがクライマックスということになるだろう。そのときの様子はまた次回ということで、今回はここまでとしたい。あと一回では終わりそうにないから、少なくとも残り2回にはなりそうだ。
 つづく。


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