 PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di
昨日は聴松閣の後編を書くことができなかったので、今日はそのつづきを書きたい。今回も写真が中心となる。 上の写真は、聴松閣のミステリーと呼ばれる地下トンネルの出入り口だ。 総延長170メートル、地下30メートルほどの位置に水平に掘られていて、南北の庭園と東の衆善寮を丁字形に結んでいるという。建物と同時進行で工事が行われたらしく、最初からここにトンネルを掘る予定だったようなのだけど、どんな目的で作られたのかは分かっていないらしい。揚輝荘では戦前からアジアの留学生をたくさん受け入れていたことや、日中戦争が始まった時期から考えて、身内の避難所と皇族や政財界の要人をかくまうためだったのではないかといわれている。 現在は一般公開されておらず、中に入ることはできない。2007年の夏の一時期、マンション工事で掘り返したときにトンネルが露出して中の様子を見ることができたようだ。今はまた埋められてしまった。トンネルとしての形が残っているところも少なくて、復元は無理のようだ。 そんな説明をするボランティアのガイドさんと、それを聞いてほうほうと感心する見学者一行が上の図だ。
 地下のトンネル付近の壁には、ヒンズー教の女神などの宗教画が描かれている。有名な画家の作品だろうと喜んで写真を撮っていたら、戦前のインド人留学生が描いたものだと知ってガクッときた。それなりに価値のあるものなのだろうけど、一般人の留学生の絵ではねと思ってしまうのも無理はない話だ。冷静に見てみると、確かにプロの絵ではないなと思う。 だいぶ傷みが進んでいるから、残すなら早めに手を打たないといけない。
 いろんなパイプが縦横に走っていて、ちょっと怪しげな雰囲気をたたえている。何が通っているのか分からないけど、やや恐ろしげだ。家の中にこんなにもむき出しのパイプがあったら落ち着かない。パイプ自体古いものだし、壁や天井もはがれかけてきている。
 ピアノが置かれた小さな半円形のステージがあって、向かい側はちょとしたホールのようになっている。このピアノも古いものなんだろうと思う。 ここでは最近もミニコンサートなどが開かれているようだ。 戦後はここを接収した米軍兵たちが、このホールでダンスなどをしていたのだろう。 考えてみると、この建物ができたのが1937年だから、すぐに戦争になってしまって、伊藤次郎左衛門祐民一家がここで優雅に過ごした時間は短かった。戦後もすぐには元の生活に戻らなかっただろうし、あまり使わないまま歳月だけが流れて古びてしまったともいえるだろう。
 ホールの奥はキッチンのようになっていたから、米兵たちはここをカウンターバーのように使っていたんじゃないだろうか。 伊藤家でもパーティーのとき使っていただろう。 壁の凝ったレリーフと「火の用心」と書かれた張り紙のアンバランスさが面白い。
 古い写真などを見る一行。いろいろ説明してくれていたのだけど、ものこの頃になるとわりとみんな勝手にあちこち見て回ってバラバラになりがちで、説明を聞く人の数は少なくなっている。 平均年齢は高い。完全にオーバー60だ。でもみなさん、元気で好奇心がある。夫婦連れの参加者も多かった。若者はあまりこういうものに興味は持たない。当然、名古屋嬢とかのギャルもいない。
 撮る人を撮るシリーズは私の定番だ。 年配の人も今はみんなコンパクトデジやカメラ付き携帯を持っている。年齢層が高いということで、フィルムカメラ派の人も3人くらいいた。これはかなり高い確率だ。最近はどこへ行ってもフィルムカメラの人はあまり見かけなくなった。
 昭和モダンのルームライト。灯りというのは用途を満たせばそれでいいというわけではないということを再認識する。店で売ってる安い実用品のライトでは、本当の意味で部屋を明るく照らすことはできないのかもしれない。私もインテリアというものに対してもう一度考え直すきっかけになった。
 ここもちょっと変わった小部屋で、何のための部屋か分かってないとのことだ。水が使えるようになっていることから、宗教的な儀式に使われたのではないかと考えられているらしい。ただ、この家にはキリスト色がないから、洗礼とは違うのだろう。 住むための家じゃないから、実用よりも趣味や遊び心を優先させることができたというのもありそうだ。
ざっと見て回った聴松閣はこんなところだ。実際に自分の目で見ると、いろいろ感じるところもあるだろうから、近くの方はぜひ応募して見に行ってください。一ヶ月先しか予約できないというのがなんとも悠長な話ではあるのだけど。 揚輝荘シリーズはもう少し続きます。あと1回か2回。私の中でもだんだん印象が古くなってきてるから、早めに終わらせてしまわないと。明日、あさってには完結させたいと思っている。
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