現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
思い出の長浜城で秀吉もみんなと花見で騒いでいたかもね
2008年04月27日 (日) | 編集 |
長浜城-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 長浜駅を出たところに、秀吉と三成の像がある。戦国野郎やお嬢なら、なるほどあのエピソードねとピンと来るだろう。三成三献茶をモチーフにした像だ。
 秀吉が長浜城主だったとき、鷹狩りの途中に寺を訪ねて、そこの坊主に茶を入れてくれと頼んだ。すると坊主は、大きめの茶碗いっぱいにぬるめの茶が入ったものを持ってきた。喉が渇いていた秀吉はそれを一気に飲み干すともう一杯とおかわりをした。二杯目は、やや小振りの茶碗に半分ほど入った熱めのお茶だった。ゆっくり飲み干した秀吉は更にもう一杯と言う。少年が三杯目に持ってきたのは小さな茶碗に入った熱々のお茶だった。
 こいつは気が利くと喜んだ秀吉は、その小坊主を長浜城に連れ帰って小姓とした。それがのちの石田三成という話だ。
 エピソードとしては面白く、三成の人となりを伝える話ではあるのだけど、これは江戸時代に入ってから作られた創作だと言われている。いずれにしても、天下を取った徳川家に敵対した総大将が後の世でいいように語られるはずもない。この話も機転が利くというよりも小賢しさを強調する話として作られたのかもしれない。
 石田三成の人となりについては、実はあまり知らない人が多いんじゃないだろうか。明智光秀についてはいろんなところでたくさん語れているのに、三成は作品の主人公になることが少ない。関ヶ原の合戦シーンにおいてはよく描かれているものの、西軍の総大将になるまでの経緯などは知らない人も多いんじゃないだろうか。私もあまり詳しいとは言えない。もしまた近江方面へ行くようなことがあれば、そのときは佐和山城跡へも行くことにしよう。そのときは石田三成について書きたいと思う。

長浜城-2

 長浜といえば秀吉が作った町だから、まずは秀吉に挨拶に行くことにした。駅近くにある豊国神社(ほうこくじんじゃ)を訪れた。
 秀吉の三回忌に当たる1600年、長浜町民が秀吉を偲んで建立したのが始まりだった。
 しかし、江戸時代に入ると徳川家は秀吉を神として祀ることを禁止した。社殿も取り壊されてしまう。それでも祭神だけは町民が守り、表向きは恵比須神を祀る神社として生まれ変わり、その奥で密かに秀吉を祀っていた。隠れキリシタンならぬ隠れ秀吉というのが江戸時代には存在したのだ。
 時代は明治に移り、豊国神社の名前が復帰して、晴れて秀吉を祀る神社に戻った。三百回忌に当たる1898年(明治31年)には拝殿も再建された。
 秀吉だけでなく、事代主大神、加藤清正、木村重成も祀られている。家臣も一緒に祀られている豊国神社は全国でここだけだという。

長浜城-3

 さほど大きくはないものの、小綺麗で気持ちのいい神社だった。生まれ故郷の名古屋市中村区にある豊国神社よりも手入れが行き届いている。
 神殿は江戸時代中期に建てられた神明造で、境内には出世稲荷神社などもある。
 それにしても、先に勝った者より後から勝った者の方が得というかなんというか、信長や秀吉の名残は家康が残したものと比べてあまりにも少なく、ちょっと露骨に打ち消しすぎだろうと思ってしまう。特に信長に関しては、偉業の割に残ったものが全然ない。普通なら信長の生まれ故郷である清洲や秀吉が生まれた名古屋の中村なんかは、日光東照宮のように全国的な観光名所になっていてもおかしくないところだ。英雄といえども最後に負けてしまえばあっけないものだ。

長浜城-4

 長浜城が遠くに見えたときには、もう完全な日没だった。当然、長浜城も開いてなくて中にはいることはできなかった。
 いい加減歩き疲れてはいたのだけど、これで最後と思うとちょっと元気が出てきた。とりあえず近くまで行ってみよう。

長浜城-5

 こんな時間に長浜城を訪れる物好きはいないだろうから静まりかえっているだろうと思いきや、ちょうど桜が満開のときで予想以上の賑わいを見せていて驚く。桜の下でみんなジャージャー肉や野菜を焼いていて、煙があたりに立ちこめているではないか。なんだこりゃと思う。酔って騒いでるし。
 長浜城を見に来た私の方が場違いな感じになってしまった。誰も長浜城なんて見てやしない。
 でも、ここは秀吉が作った長浜城。醍醐の花見を催した秀吉のことだ、このどんちゃん騒ぎを見て喜んでいたことだろう。自分も降りてきて、一緒になって騒いでいたかもしれない。

長浜城-6

 長浜城は秀吉が初めて一国一城の主となった城だ。
 1573年、浅井長政攻めで軍功をあげた秀吉は、信長から浅井家の所領12万石を与えられてこの地に移ってきた。当初、浅井家の居城だった小谷城(おだにじょう)に入城したものの、そこは交通の便が悪いということで、琵琶湖畔に新たな城を築くことにした。そこは、バサラ大名として知られた京極道誉(佐々木高氏)が室町時代に建てた出城があったところで、地名を今浜といった。
 小谷城などの資材を使って1年がかりで城を築き、名前を長浜と改名する。信長の長の字をもらったのだ。若い頃の秀吉はこうやって人に取り入るのが上手かった。この頃はまだ羽柴秀吉と名乗っていたときで、羽柴も信長の有力家臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらったものだ。もとは木下藤吉郎だった。
 城作りと平行して城下街作りも積極的に行った。小谷城下や周辺から商人や住人を集め、楽市楽座を設けるなどして商業都市としての基礎を作り、それが現在にまでつながっている。
 長浜城主だった時代はほんの数年に過ぎなかったものの、秀吉はここで三成や大谷吉継などの有能な家臣を発掘し、一男一女にも恵まれている。思えば秀吉にとってこの頃が一番よかった時代かもしれない。
 その後秀吉は信長の命を受け中国地方に向かい、本能寺の変のあと、清洲会議で長浜城は柴田勝家の甥の勝豊に与えられることとなった。しかし、隙を見て秀吉はこの城を奪還。柴田勝家との賎ヶ岳の戦いではここを拠点として大勝を収めている。
 1585年から5年間、山内一豊が城主となっている。
 その後城は荒れ、いったん石田三成の支配下となり、江戸時代に入ると家康の異母弟の内藤重成が城主となって大改修を行った。
 1615年、一国一城令で内藤信正が摂津高槻城への移封になったのを機に廃城となり、城の役割は彦根城へと移った。大半の資材は彦根城の築城のときに使われたとされている。

 現在、長浜城の遺構は、わずかな石垣と秀吉が作ったという太閤井戸の跡が残るのみとなっている。井戸は琵琶湖の底だ。
 江戸時代の絵図によると、2重の堀に囲まれた水城で、南北1.2キロ、東西07キロの規模だったのではないかと考えられている。きちんとした資料が残っていないことから、天守などがどうなっていたかは分かっていない。
 現在の天守は1983年(昭和58年)に、同時代の犬山城や伏見城を参考にして復元された模擬天守だ。どれくらい実物と似ているのも分からない。建っている場所もここではなかった。
 復元天守閣とは名乗らず、長浜城歴史博物館としている。平成4年に内部がリニューアルされた。

長浜城-7

 琵琶湖は海みたいだけど、やっぱり湖だ。暗くて水の状態はよく見えなかった。前に一度訪れたときは、かなり汚れている感じだった。あれから少しはきれいになっただろうか。

長浜城-8

 琵琶湖を眺めるカップルたち。この日は夕焼けが見られなかったのが残念だった。前に見た琵琶湖の夕焼けがとても印象的でよく覚えている。

長浜城-9

 こうして私の滋賀巡りは終わった。近江八幡、安土、彦根、長浜。これだけ距離が近いと、関係性も深い。琵琶湖畔を巡る歴史の流れを多少なりとも理解できたのも、今回の大きな収穫だった。
 振り返ってみればいろいろと心残りもある。もう一度訪れる機会があるかどうか、今はまだ分からない。呼ばれたら行くことになるだろうし、もう充分というなら行きたくても行けないだろう。
 滋賀シリーズということではもう一回だけ最後に思い出編として、本編に入れられなかった写真を集めて紹介したいと思っている。なので、滋賀巡りの総括は最終でやることにしよう。


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