現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
富士山と浅間神社と富士信仰について -激闘・河口湖編<第四回>
2008年05月04日 (日) | 編集 |
御室浅間神社-1

PENTAX K100D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 流鏑馬のあと、急いで河口湖駅へ戻る途中に境内を急ぎ足で抜けるようにして参拝した冨士御室浅間神社。ついでに挨拶に寄っただけみたいになってしまって、祭神の木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)も、なんて慌ただしい者たちだとあきれていただろうか。
 レンズも流鏑馬のあとで望遠をつけたままで、写真も使えるものが4枚しかない。それでもせっかく行ったことだし、富士山信仰と浅間神社に関する知識を整理するためにも書いておきたいと思う。

御室浅間神社-2

 ほとんど何の予備知識もないまま行ったので、境内に本殿らしき建物が二つあって戸惑った。最初、こちらの赤い拝殿にお参りして、さあ行こうと思ったら、左手にもうひとつ立派な拝殿があって、そっちの方がお参りしてる人が多い。なんだあっちが本殿だったのかと急いでそちらにもお参りしてここをあとにすることになったのだけど、帰ってきてからここのことを調べてようやくどういうことか納得した。話はちょっとだけややこしい。
 まず、冨士御室浅間神社は、富士山に作られた最古の神社とされているというのがある。これは上の写真の本宮のことで、もともとは吉田口登山道のニ合目に建てられていたものだ。699年、創建は藤原義忠とされている。
 最初は非常に小規模なもので、初めて社殿が作られたのは807年のことだった。しかし、富士山の噴火で焼失。その後再建と増築がなされた。
 戦国時代は武田家の祈願所となって、信玄とオヤジの信虎、嫡男の勝頼の三代に渡って大事にされた。武田家に関する資料をたくさん所蔵しているという。
 江戸時代に入っても徳川家の保護を受け、1612年に徳川家の家臣・鳥居成次によって本殿が再建された。それが現在の元になったものだ(4度大きな修理を行っている)。
 本殿は入母屋造、銅板葺。桃山時代の特徴を持つ貴重なもので、国の重要文化財に指定されている。

御室浅間神社-3

 こちらの渋い色の本殿が里宮だ。富士山二合目の本宮まで行くのは大変だということで、958年に村上天皇が現在の勝山の地に創建した。
 旧称は、小室浅間明神といった。勝山村にあるということで、勝山浅間神社とも呼ばれていたようだ。
 御室、または小室というのは、かつて石柱をめぐらせた中で祭祀を執り行っていたからだそうだ。
 昭和39年にスバルラインが五合目まで開通すると、本宮を訪れる人も減り、登山道ともどもだんだん荒れていった。自然条件の厳しい場所で管理を続けるのも難しいということで、昭和49年(1974年)に里宮がある現在の場所に移築されたのだった。
 それにしても、お互いに本殿が北と南で向かい合う形で建っているというのは変わってる。それが私たちが戸惑った理由でもある。
 もともとここは里宮のあったところで、里宮は南向きに建っていて、本宮は北向きに建っている。二合目にあったときからおそらく北向きで、そのままここに移築したということなんじゃないだろうか。本殿が互いの方向を向いて二つある神社というのも珍しい。

御室浅間神社-4

 富士山を神に見立てて信仰の対象にするという精神性は理解できる。日本人は長生きの木にさえ神を見る民族だ。ただ、富士山信仰というのは時代によって性格を変えてきていて、その歴史はそれほど単純ではない。
 富士山信仰の代表的な神社である浅間神社(あさまじんじゃ、せんげんじんじゃ)は、全国に1,300もあるという。当然ながら静岡、山梨に多く、江戸だった東京にもたくさんある。愛知までくるとほとんどなくて、東郷町の富士浅間神社くらいしかないようだ。
 総本宮がどこかということで過去にもめて裁判で争った結果、現在は富士宮市にある富士山本宮浅間大社ということで落ち着いた。
 浅間神社の語源についてはいくつもの説があってはっきりしていない。浅間神という火の神と噴火する富士山が一体化したものだとか、九州阿蘇山との関係だとか、アイヌ語のアサマから来ているなど、いろいろあるようだ。
 富士についても実はよく分かっていない。フジ、フヂ、フチなどという呼び名に様々な字を当てて表記していた。唯一無二の山ということで不二だとか、不死、不尽、不時、富慈、富知など。富士が新しいというわけではなく、「続日本紀」ですでに登場している。富士が一般的に定着するようになったのは江戸時代以降で、それ以前から武士が富むということで武家層はこの字を好んだという話もある。

 富士山に対する畏敬の念は、この国に人が住むようになったときからあったに違いない。記録をさかのぼれば、「古事記」や「日本書紀」にももちろん登場している。昔から歌にもよく詠まれてきた。
 現在、ほとんどの浅間神社の祭神は木花咲耶姫命になっているけど、昔からそうだったわけではない。もともとは噴火を繰り返す火の神に対する畏れと、素朴な山岳信仰だった。
 初期の浅間信仰は、センゲンではなくアサマ信仰だった。冨士御室浅間神社が山と里に建てられ、火の神である浅間神を祀っていた。
 他方で、富士の山霊である富士大神(ふぢおほかみ)という神様もいて、のちにそれは渾然一体となっていく。
 奈良時代、役小角(えんのおづぬ)の登場によって浅間信仰は山岳信仰と結びついて、センゲン信仰へと変容していく。ただ遠くから眺めて畏れ敬うのではなく、自ら登ることが信仰の形になっていった。
 それは同時に仏教との結びつきも意味し、浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)なる神も登場し、神仏習合の色合いを強めていく。
 それがいつから木花咲耶姫命が祭神となっていったのかはよく分からない。江戸時代だったのか、それより以前だったのか。
 木花咲耶姫命というのは、山の神である大山積神(オオヤマツミ)の娘で、火の神、または水の神とされる女神だ。結婚して一日でみごもった子供を夫のニニギに疑われ、潔白なら火を放った産屋でも産めるはずだと無茶なことを言われてみごと三人の子供を産んだのだった。そこから、火除けの女神であるとされ、山の神である父親から富士山を与えられて守護神となった、というお話だ。
 江戸時代に入ると庶民の富士山登山が一般的なものとなり、冨士講という新興宗教が爆発的に流行した。関東一円にたくさんの浅間神社が建てられ、富士山を模した富士塚も数多く作られた。富士山まで行けない人たちがそこで冨士に登った疑似体験をして信仰するというものだ。あまりにもブームになってしまって幕府はたびたび冨士講禁止令を出したものの、とどまることなく増え続けたという。
 現在にそれがつながってないのは、明治の神仏分離令だ。あれで徹底的に叩かれ、壊された。それでも浅間神社が今でもこれだけあるということは、富士山に対する日本人の思い入れはそれだけ強いということだろう。
 富士山の8合目より上は浅間神社のものということになっている。
 7月1日の山開きから9月はじめまでの3ヶ月間、富士山に登る人は年間20万人を越えている。これは世界一登山者の多い山だ。外国人も多い。高さだけでなく、姿の美しさだけでもなく、富士山には人を惹きつける力がある。そこに神を見るのはごく自然なことだ。

 この日流鏑馬が行われなければ、冨士御室浅間神社へ行くことはなかっただろう。偶然ではあったとしても、こういう巡り合わせは大切にしたい。この日は富士山運がなかったと思ったけど、思いがけないところで富士山の神様と縁ができた。こうしてブログに書くに当たってちょっと勉強して分かったのもよかった。浅間神社ってそういうものだったのかと納得がいった。
 このあと私たちは富士桜を見に行くことになるのだけど、木花咲耶姫命は、桜の精であり、最初に富士山から桜の種をまいた女神だとも言われている。そこにつながりを見るのはあながち強引でもないだろう。「さくら」という名前は、「さくや姫」が転じたものという説もある。
 富士山麓に咲く富士桜こそが木花咲耶姫命のまいた種から生まれた桜なんじゃないか。それは小さくてとても可憐な花なのだ。近いうちにその桜も紹介したいと思っている。


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