現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
姫路城訪問記最終回 ---ありがとさよなら姫路城、また会う日まで
2007年10月19日 (金) | 編集 |
姫路城番外編-1

Nikon D50+SIGMA 17-70mm F2.8-4



 姫路城訪問記第3回目は最終回で番外編。姫路城の中や周辺で心惹かれて撮ったスナップ写真をお届けします。まずは猫から。
 おそらくこのあたりを根城にしているノラだろう。人に慣れているというよりまったく物怖じしない堂々とした態度の猫だった。至近距離まで近づいてもまったく無視。しきりに体をなめまくっていた。触れる距離まで近づいてやっとこっちを見た。でもまた掃除再開。人を人と思っていないようなところのあるやつだった。きっと人にメシをもらっているのだろうけど、その人にも愛想なしなのか。
 猫に小判、猫にお城、猫に国宝。こいつなら世界遺産に指定されている城で爪研ぎでもしそうだ。

姫路城番外編-2

 三国濠にサギがいた。なるほど、白鷺城だけにシラサギが、と思ったら、アオサギだった。惜しい。
 でもなんで白くて美しい城が白鳥城ではなく白鷺城だったのだろう。コサギやダイサギだってきれいといえばきれいだけど、白くてきれいな鳥の代名詞といえばやっぱりハクチョウだろう。ドイツのノイシュヴァンシュタイン城も白鳥城と呼ばれている。日本では「しらとりじょう」というのがいくつかあったようだ。
 菱門から入ってすぐにどうしてこんなプールのような四角い濠があるんだろうと思ったら、攻め入ってきた敵の勢いをここで殺し、あるいはここに追い込んで水に落として身動きをとらせないようにする目的があったんだとか。
 姫路城のこういう仕掛けをたくさん見ていると、作ったときは大まじめで本気だったのだろうけど、この懲りようというか用意周到さは遊び心さえ感じられる。趣味的すぎると言ってもいい。実際に一度も攻城戦が行われていないから効果の程は定かではないのだけど、かなり効果があるような、机上の空論のような、はてどうだろうとちょっと考えてしまう。
 もちろん、簡単に攻略できるような城ではない。自分が数万の兵で取り囲んで落城させるにはどうしたらいいかと考えたとき、やっぱりこの城は攻めがたいと思う。まともにいったのでは、天守閣に至るまでで大きな犠牲を出してしまいそうだ。

姫路城番外編-3

 外の堀にいたハクチョウならぬコクチョウ。ハクチョウの黒版だ。なんでハクチョウではなくコクチョウだったのだろう。ここで泳がせておくためにわざわざ原産地のオーストラリアから連れてきたのだろうか。姫路城の中には小さな動物園があるから、そことも関係があるのかもしれない。
 黒い城というと豊臣方だから、徳川の城にコクチョウはちょっと似合わない。私が見てないだけでハクチョウもいたのだろうか。

姫路城番外編-4

 十月桜が天守の前で咲いていた。もうそんな季節になっていたか。狂い咲きではなく秋から冬にかけて咲く桜もある。八重咲きなら十月桜、一重なら冬桜と思っておいてだいたい間違いない。
 秋の桜は貧弱であまり美しくないようだけど、近づいて見るとけっこう可憐でこれはこれで悪くない。
 春の桜はもっときれいだろう。桜と城の組み合わせは王道だ。

姫路城番外編-5

 城内にあるおみやげ屋さんは昭和の風情そのままだった。店のたたずまいといい、売っているおみやげ物のラインナップといい、文句なしの正統派だった。
 古いおみやげ物やのおかしさというのは、たとえばかつてのトシちゃんやマッチの髪型とスタイルで現代の街を歩くようなものだ。それは古すぎるだろうと突っ込まずにはいられない。どんなにかわいい女の子でも今聖子ちゃんカットをされたら笑ってしまうのと同じだ。

姫路城番外編-6

 出た、金メッキお城シリーズ。今どきこれを本気で欲しがって買う人はあまりいないと思うけど、定番商品としては欠かせない。私も笑い話のネタとしては一つ欲しいと思ったから、冗談半分で買っていく人が実はけっこういるのかもしれない。自分の家に飾りたいというよりも、おみやげとして人にあげたい。もらった人はとっても困るだろうな。
 こうして写真を見てたら買ってくればよかったような気もしてきた。大きいのでも1,000円以下だし、小さいのは500円くらいとそんなに高いものじゃない。私へのおみやげはこれにしてください。

姫路城番外編-7

 姫路という街は電車が発達してないから、バスがやたら走っている。パッと見渡すと、いつでもたいてい5台以上視界に入る。多いときは10台近くいるようなこともある。バスは観光で初めて行く街では分かりづらい。朝夕のラッシュはバスだけで乗り切れるものなんだろうか。
 姫路観光には写真の観光巡回バス「お姫様号」が便利だ。駅前のターミナルから姫路城の外周をぐるりと一周巡っている。1回100円で、直接大手門の前まで行ってもいいし、一周回って姫路の街を見てから庭園前で降りてもいい。私はそうした。
 観光地ではたいていこの手のバスが走っているから事前に調べておくと便利に回ることができる。名古屋もつい最近観光巡回バスが誕生した。その名も「メーグル」。名古屋らしいネーミングセンスが爆発している。バスは金シャチにちなんで金ピカに塗られているからちょっと恥ずかしい。名古屋港の金鯱号の二の舞にならないといいけど。

姫路城番外編-8

 城の前がおみやげ物屋街になっている。こちらは昭和ではなく平成だ。建物が全般的に新しかったけど、最近建て直したりしたのだろうか。
 しかし、姫路というのはおみやげ物がないところで、何を買おうか迷った。播州赤穂の塩味饅頭はこの地方の名物であって姫路城みやげとしては面白くない。いろいろと姫路城の名前のついたものはあるものの、どれもどこでも売っているお菓子でここでしか買えないようなものが見あたらなかった。姫路城をかたどった最中なんかがあれば買っただろうに。美味しかろうがおいしくなかろうが、ここならこれという定番が欲しい。名古屋ならういろう、京都なら生八つ橋、三重県なら赤福みたいなものが。
 結局、食べたいお菓子重視ということで姫路生チョコケーキというのを買ってみた。

姫路城番外編-9

 お昼はたこ焼き。質素倹約を旨とする私の基本的な観光スタイルはここでも踏襲された。食堂みたいなところは、ありふれた定食みたいなものしかなくてそそらなかったから、それならいっそ関西風のたこ焼きを食べてみようということになった。
 おみやげ物やの並びで誰も客が入ってなくてやや不安だったのだけど、これがびっくりするくらい美味しかった。大阪風と明石焼きの中間のようなふんわりやわらかたこ焼きで、名古屋では食べたことがない食感と味だった。大きいのが8個で300円は安い。家の近所にあればちょくちょく通って食べたいと思わせた。
 ソフトクリームも8種類くらいあって200円と格安で食べたたかったのだけど、たこ焼きだけでおなかいっぱいになってしまったのが残念だった。

姫路城番外編-10

 最後にもう一度姫路城を振り返って、名残を惜しむ。最初で最後になるかもしれない姫路城をしっかりと記憶に刻んだ。ありがとう、姫路城、そしていつまでもそこにそうして建っていておくれよ。これはまさしく、世界に誇っていい日本のお城だ。
 これで4つの国宝のうち、犬山城、彦根城、姫路城と3つまで行った。残りは松本城だ。あそこも必ず行きたい。
 江戸時代以前に建てられた城で天守が残っているのが12。これを現存十二天守という。弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城。第二次大戦前までは名古屋城、岡山城、広島城、大垣城、福山城、水戸城、和歌山城、松前城などが残っていたのに焼けてしまった。それだけでもアメリカの罪は重い。
 2006年には日本100名城が選ばれて、今年2007年からスタンプラリーが始まった。知ってました? 普通は知らないと思うけど、城野郎、城お嬢にとって、これは燃える。夏休みのチビたちが山手線でポケモンのスタンプラリーをしてたけど、あれ以上の情熱を持って城を巡っている大人もいるのだ。100個集めて江戸城へ行くとドラゴンが降りてきて願い事をなんでも一つ聞いてくれるらしい(そうだといいな)。さすがに100は無理だと思うけど、現存十二天守は全部見てみたいという思いはある。
 こうしてゆるやかな私の城巡りはこれからも続くのであった。


姫路城訪問記その2 ---そこには確かに彼らの泣き笑いと人生と暮らしがあった
2007年10月18日 (木) | 編集 |
姫路城訪問記2-1

Nikon D50+SIGMA 17-70mm F2.8-4



 姫路城訪問記第二回目は、いよいよというかようやく天守閣に入っていくことになる。あんまりのんびりしていたのではいつになったら終わるか分からない。ちょっとだけ足取りを早めよう。
 前を行くのは、ちびっことカメラを持ったお父さんだ。大股で歩く父親と、そのあとを駆け足で追う少年と、城にはそんな男たちの小さなロマンもあったりする。ちびはこの日のことを大人になっても覚えているだろうか。

姫路城訪問記2-2

 次に現れたのは若いカップルだ。なるほど、お城デートというのもありだろう。姫路の少年少女と姫路城の親密度はどの程度なのだろう。名古屋の中高生は名古屋城でデートしたりはしない。名古屋人にとっての名古屋城は、県外の人たちが思っているよりも近くて遠い存在なのだ。日常の中でたびたび行くようなところではない。行くとしてもそれはかなり非日常的なものだ。姫路城は姫路市民と近しい関係にあるのだろうか。
「はの門」から「にの門」にかけては、時代劇でよく登場する場所だ。このあたりは視界の中に近代的な建築物などが入ってこないから使いやすいのだろう。このへんの風景は江戸時代とほとんど変わってないんじゃないだろうか。
 姫路城は、駅前にありながら周りに高い建物がないというよさもある。

姫路城訪問記2-3

 天守閣の内部に入った。おお、これが姫路城の天守かと、しばし感慨にふける。素晴らしい古めかしさだ。人は新しいものに惹かれるだけでなく、ときに古さに感銘を受ける。城や神社仏閣などは古ければ古いほどありがたいと感じるものだ。
 木の傷み具合や床のきしむ音がたまらない。人波がふっと途絶えたとき耳を澄ますと、ドンドンドンという足音と共に甲冑がガシャンガシャンとこすれる音が聞こえてくるような気さえする。
 それにしても天守の内部は暗い。この日は曇りがちだったということがあるにしても、暮らしを考えると昼間でも灯りが必要なほどだ。昔はどうしていたんだろう。これくらいでも充分だったんだろうか。戦もない毎日の生活の中で、ここに住んでいた人たちは日々何をしていたのか。娯楽も少ないし、仕事もあるようなないようなだ。特に江戸時代の最初の頃は、急に戦がなくなって武士たちは途方に暮れたことだろう。それとも、平和になって案外みんな楽しく暮らしていたのかな。

姫路城訪問記2-4

 姫路城は戦を強く意識して造られた城だから、武器などの備えも万全だったに違いない。特に守りを重視した城だから、仕掛けも抜かりがない。構造で守り、守りながら攻撃するという想定があちらこちらで見られる。けれど、とうとうこの城では一度も戦が行われなかった。敵が攻めてくることもなく、この城から戦に出たこともなかった。備えあれば憂いなしということだ。
 敵が攻め込んできたことを第一に考えられているから、暮らすにはすごく不便な作りになっている。階段の配置が複雑で、傾斜は直角に近いくらい急角度で登るのも降りるのも一苦労だ。あまりにも不便だから、しまいには誰も天守まで登らなくなったという話も納得がいく。戦でもなければ天守に用はない。それぞれが下の屋敷で暮らしていたのだろう。仕事場も天守ではなかっただろうし。
 あまりにも人が出入りしなくなり、そのうち妖怪が出るというウワサが立ち始めた。その妖怪を退治したのが、名前を隠して足軽奉公をしていた宮本武蔵だったという逸話は有名だ。諸国放浪をしていた武蔵は、何年間か姫路城にこもって修行をしている。妖怪退治の話はともかくとして、宮本武蔵がこの城にいたことは間違いなさそうだ。武蔵がいたという部屋は、開かずの間として限られた期間だけ一般公開される。

姫路城訪問記2-5

 千姫のものとされる豪華版羽子板が飾られていた。実際に羽子板で遊んだりしたんだろうか。勝った負けたで互いの顔に墨で○や×やヒゲを書いたりしてたら笑えるんだけど、そんな昭和のバラエティー番組のようなことはしなかったのだろうな。
 姫路城の裏の千姫が毎日通ったという男山千姫天満宮は、千姫が奉納した羽子板にちなんで絵馬が羽子板の形をしている。姫路城に展示されているものは、この天満宮に千姫が奉納したものとされるものだ。

姫路城訪問記2-6

 天守閣の構造が木組みで再現されているものがあった。ものすごい木の量だ。これはお金がかかるはずだ。鉄筋コンクリートで再建したくなる気持ちが分かる。これだけの木を集めてこようと思ったら、どれくらいの金額と労苦が必要になるのだろう。昭和31年から始まった昭和の大修理は、中心となる柱選びから始まって、大変な苦労だったようだ。のべ25万人が従事して、8年かかっている。
 木造の建物は確かに長持ちするのだけど、これだけの規模の建築物となると、この先永久に保っていくのはだんだん難しくなっていく。地階から最上階までを貫く極太の柱もすごいものだった。

姫路城訪問記2-7

 姫路城の全体的な様子は、姫路駅にあったこの模型が一番分かりやすい。天守閣だけでなく、周囲の建築物がほぼそのままの形で残っているところに姫路城の貴重さがある。
 姫山に初めて城と呼べるものを築いたのは、南北朝時代(1346年)の赤松則村とその子である赤松貞範だとされている。その後、この地方の豪族だった小野田氏が治め、その重臣だった黒田孝高(のちの黒田官兵衛)が城主となっているところに、中国遠征で豊臣秀吉がやって来た。そこで官兵衛はあっさり城を秀吉に譲り渡して信長の配下に入ってしまう。先を見抜く力があったのだろう。官兵衛自身ものちに秀吉の側近となり大いに活躍することとなる。
 信長の命を受けた秀吉は、1580年から一年がかりで姫路城を三層の本格的な天守閣に改築する。ここが西国を攻めるための拠点となった。それから3年間は秀吉が城主をつとめた。
 毛利攻略に手間取っていた1582年、本能寺の変が起きる。知らせを聞いた秀吉は、大急ぎで引き返して、いったん姫路城で休息を取っている。
 1584年、小牧長久手の合戦で秀吉は徳川家康に敗れ、木下兄弟と池田恒興を失う。いったんは城主に弟の秀長を置いたものの、秀長は多忙すぎて、木下家定がそれから16年間つとめることになる。
 時は流れて関ヶ原の合戦の翌1601年、戦での活躍を認められた池田輝政が家康の娘婿となって姫路城に入ることになる。神君家康の婿殿となった輝政へのプレッシャーは大きかった。西国の大名ににらみを効かせるためということで姫路城を一大要塞へと大改築させることを余儀なくされる。本来ケチんぼであったとされる輝政も、このときばかりは舞い上がって力の限りを尽くした。莫大な費用と人員を動員して、8年がかりで江戸城にも匹敵する大城郭を作り上げたのだった。のちに千姫が作った西の丸の化粧櫓とあわせて、現在の姫路城の姿はこのとき完成をみた。
 しかし、時代はもう大きな城を必要としなくなっていた。戦もなくなり、姫路城は無用の長物となっていく。城主もめまぐるしく交代した。池田氏の時代も3代16年で終わり、本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏などが入れ替わり、だんだん荒れ果てていき、明治維新を迎えることとなる。

姫路城訪問記2-9

 五層六階の最上階は意外と狭い。その中央にお社がある。姫路城の守り神とも妖怪ともいわれる刑部大神(刑部姫)が祀られている。
 さすがに世界遺産、異人さんが多い。欧米よりも中国人がやたら多くて韓国人は見かけなかった。中国側へ宣伝されているのだろうか。

姫路城訪問記2-10

 大天守閣からの眺めがまたいい。姫山の上に建つ姫路城は海抜92メートル。石垣だけで約15メートル、建物が30メートルちょっと、なかなかの見晴らしだ。
 これだけ目立つ大きな建物なのに、第二次大戦の空襲でも焼けなかったのは奇跡か偶然か守り神の力か。姫路の街が壊滅的に焼けたのに姫路城だけは無事だった。アメリカ空軍もこの城の美しさを見てこれは爆弾を落としてはいけないと思ったのだろうか。
 現在では年間80万人以上が姫路城を訪れる。城マニアでなくてもこの城の美しさは分かる。外国人だってそうだろう。よくぞ残ったと喜びたい。
 あれから400年以上が経った。ずっと昔のようでもあり、けっこう最近のことのようにも思う。ぼんやりとした伝説のお話ではなく、ちょっと前にあった歴史がここにある。お城を外から眺めて、天守の中に入って歩いてみれば、歴史の息づかいが確かに感じられる。自分とは無関係の時代にあった他人事なんかじゃない。ここには人生があり、暮らしがあり、喜怒哀楽があった。恋愛も別れも死も。泣いて笑って戦った、私たちと同じ人間たちがここで生きていた。その延長線上に今私たちは生きている。そのことを忘れてはいけない。私たちは彼らの夢の具現者なのだから。
 姫路城訪問記はあと一回、番外編へとつづく。


姫路城訪問記その1 ---サラっと軽く書くつもりが天守閣に入れず編
2007年10月17日 (水) | 編集 |
姫路城訪問記1-1

Nikon D50+SIGMA 17-70mm F2.8-4



 姫路城へ行って感銘を受けて、家に戻ってきて勉強して、いざ姫路城について書こうとしたら言葉に詰まった。たくさん写真を撮ってきて、書くべき事もいろいろあるのに、何からどう書いていいのか分からない。まだ自分の中で姫路城を消化しきれていないらしい。どの写真を使ってどれを不採用とすればいいのかの判断もつかない。こうなったら私が見たものを見た順番で並べて、その都度簡単な説明を付けていくというスタイルしかなさそうだ。姫路城訪問記ということで、今回はそのスタイルにしよう。それが一番分かりやすいし書きやすそうだ。1回か2回で姫路城についてコンパクトにまとめるなんてことはできそうにない。
 ということで、歴史やエピソードについては後回しにして、まずは城外から天守閣に向かうまでの道のりを紹介していこう。これを見て、多少なりとも自分も行ったような気分になってもらえれば成功だ。私自身の記憶を整理することにもなるだろう。
 まずは堀からだ。江戸城周辺ほど広くはないけど、堀はかなり残っている。風景としては現在の皇居周辺に少し似ていた。城造りの発想として江戸城と姫路城は相通ずるものがある。名古屋城の堀なんかとは構造が違う。
 かつては内堀、中堀、外堀と三重に城を取り囲んでいたそうだ。外堀は11キロ以上、城下町は187ヘクタールの広大さだったという。今でもかなり残っているけど、それでも23ヘクタールと8分の1でしかない。江戸時代の姫路がそれほど発達した城下町だったとは知らなかった。京都、大阪から西への備えであり、交通の要所でもあったからからなのだろう。

姫路城訪問記1-2

 入り口では立派な橋が出迎えてくれる。やけにピカピカだなと思ったら、平成19年の今年できたばかりだった。どうりで新しいはずだ。
 桜門橋と呼ばれるこの橋は、江戸時代から明治初期まで大手門の内堀に架かる木の橋だった。それを再現するにあたって、市民側は木の橋を希望し、姫路市は安全のために鉄筋の橋を造るといってしばらくモメていたらしい。結果的には間を取って、中身は鉄筋、外側が木製ということで決着がついた。木造もどきというのはちょっと残念だけど、手すりなどは純木製で雰囲気はある。ある程度歳月が経てばいい感じになっていくだろう。今はまだ新しすぎて違和感がある。

姫路城訪問記1-3

 橋を渡ればすぐに大手門前だ。でも、まだ本物は始まっていない。この大手門は昭和13年に再建されたもので、かつてのものとは大きさも位置も違っている。防御重視ということで、江戸時代の大手門は三重構造になっていた。かつては桜門という名前で、その後ろには桐一の門、桐二の門が並んでいた。
 だから、ここからしてすでにありがたがってしまうのは間違いということになる。それは焦りすぎの勇み足というものだ。

姫路城訪問記1-4

 大手門をくぐると、遠く高いところに天守閣が姿を現す。おおー、これは、としばし立ち尽くす。その手前の三の丸広場では、なんの感慨も持たないちびっ子どもが城には目もくれずに走り回っていた。姫路っ子にとってみれば、姫路城なんてものは物心ついた頃から見慣れていてありがたくもなんともないのだろう。遠足でもちょくちょく連れてこられたりしてもう飽きてるのかもしれない。近くにある偉大なものの価値というのは分かりづらいものだ。
 ここまではまだタダゾーンなので人も多い。市民の憩いの場となっているようだ。この広場ではいろいろなイベントやライブなども行われている。周囲には桜が植えられていたから、花見シーズンは花見客で賑わうのだろう。
 かつては池田輝政の御殿など、様々な建物があったのだけど、明治時代に兵舎を作るために全部取り壊されてしまった。明治政府はろくなもんじゃない。
 姫路城そのものも明治に消滅の危機に瀕している。明治4年の廃藩置県で城が不要のものとなり次々に取り壊されていく中、姫路城はなんとか取り壊しを逃れたものの老朽化が激しくガタガタのボロボロとなっていた。それで競売の結果、神戸清一郎という人が23円50銭で落札する。これは現在の貨幣価値に換算すると120万円ほどだというから安い。いかに引き取り手がなかったかということだ。結局その人も持て余してしまって手放すこととなる。
 その危機を救ったのが中村重遠大佐で、こんな偉大なものを壊してしまうなんてもったいなすぎると陸軍卿だった山県有朋を説得して、陸軍の費用で修繕して保存することになったのだった。中村大佐は名古屋城も救っている。今の姫路城と名古屋城があるのは中村大佐のおかげと言っても言い過ぎではないかもしれない。
 なんか、すでに話が長くなってきた。まだ有料の門も入ってないのに。先を急ごう。

姫路城訪問記1-5

 入り口で600円を払って城内へ入るとすぐに見えてくるのが、二の丸の入り口の大手口にある菱の門だ。いよいよここからが姫路城の本物が始まる。
 櫓門(やぐらもん)と呼ばれる形式のこの門は、攻めてきた敵に対する備えとして作られている。伏見城から移築したといわれる上層部には多数の兵がたまるスペースが作られていて、ここから弓を射ったり、石を投げたり、熱湯をかけたりなどして敵兵を攻撃できるようになっている。
 しかしながら同時に安土桃山時代の様式を残した美しい門でもある。この攻撃性と優美さの同居こそが姫路城の本質だ。
 21ある門の中でこの門が一番大きな門ということになる。
 両柱の冠木には木彫りの菱の紋があって、そこから菱の門と名づけられた。

姫路城訪問記1-6

 天守に向かう近道としては、菱の門をくぐって三国濠の前を通って右に行くのが順路のようだけど、ここはあえて左の西の丸から行きたい。ここの櫓(やぐら)を通って天守に向かうのがオススメだ。
 ワの櫓、レの渡櫓、ヲの櫓、タの渡櫓、ルの櫓、ヨの渡櫓(西の丸百間廊下)、ヌの櫓、カの渡櫓と続く背隠曲輪があり、そこから千姫のいた化粧櫓へと至る。
 西の丸では、「大奥」の撮影が行われた。もちろん、姫路城に大奥のたぐいはなかった。姫路城は外観が江戸城に少し似ているということで、テレビや映画で江戸城としてよく登場している。

姫路城訪問記1-7

 櫓の内部はこんな感じになっている。古いということを差し引いても薄暗い。ここはただの廊下ではなく、右側にスペースがあって、奥女中たちの住み込み部屋になっていたようだ。当時は女性たちの話し声や笑い声で賑やかだったのだろうか。今は壁も床も柱も扉も古びていて、けっこう恐ろしげだ。夜はとてもじゃないけど歩けない。

姫路城訪問記1-8

 一部だけ妙に新しかった。最近修繕されたらしい。
 中を歩いているとくねくねと曲がっていて方向感覚を失う。これはどのあたりだったのだろう。百聞廊下あたりだったのだろうか。
 外では足場が組まれていて今現在も補修工事中だった。年中どこかしら直しているのかもしれない。維持費はとんでもなく高そうだ。

姫路城訪問記1-9

 化粧櫓を外から見たところだ。ここも外壁は最近塗り直されたようで、白く輝いていた。
 千姫が実際にここで暮らしていたと聞いてもなんだかちょっと信じられない。訪れたときの化粧櫓はなんとも暗かった。当時はもっと明るい住まいだったと信じたい。
 二代将軍徳川秀忠と、浅井長政と信長の妹お市の娘である崇源院の間に生まれ、7歳のときに政略結婚で豊臣秀吉の子秀頼のもとに嫁ぐことになる(1603年)。
 しかし、1615年の大坂夏の陣で、祖父である家康と父秀忠によって豊臣家は滅亡に追いやられてしまう。焼け落ちる大阪城から救出された千姫は、江戸に帰る途中、伊勢桑名の城主本多忠政の嫡男忠刻(ただとき)を見て一目惚れ。どうしてもあの人と結婚するんだと言って聞かず、父の秀忠も自分が豊臣家を滅ぼしてしまったという負い目から結婚を認めざるを得なかった。
 本多家が姫路に移封になったとき、千姫が将軍家から10万石の化粧料をもらって作ったのがこの化粧櫓だった。10万石というと現在の貨幣に換算するとざっと7億5,000万円くらいになる。お小遣いというにはすごい金額だ。将軍の娘となればそれくらいは当然なのか。

姫路城訪問記1-10

 化粧櫓の一室には、千姫の人形がいる。前触れもなく突然現れるからちょっと驚く。ここだけ急にこんなものがあるなんて。隣に座った猫もポイントだ。
 千姫は相当な美人でもあり、温厚な性格でもあったという。波瀾万丈の前半生にしてはやさぐれたところがない。それも育ちの良さだろうか。秀頼との夫婦仲もよかったというし、忠刻とも幸せな生活を送ったとされている。ただ、長男が三歳で病死したあとは子供に恵まれず(娘の勝姫はのちに池田光政と結婚)夫の忠刻、母の崇源院などを次々に亡くし、それは秀頼のたたりだなどとも言われた。ときに千姫まだ30歳。
 いたたまれなくなった千姫は娘と共に江戸城に戻り、出家してその後再婚することはなかった。1643年には、縁切り寺で有名な鎌倉東慶寺の伽藍を再建したりもしている。
 その後は三代将軍家光の側室お夏の方や、家光の次男綱重たちの世話をして暮らし、70歳まで生きた。姫路や本多家に戻ることなく、徳川家の姫として葬られた。

 さらっと書くはずの姫路城訪問記は、一回目から長くなった。こんなはずではなかったのに。筆が滑ったな。
 二回目からはもっと短くトントン拍子で進めたいと思っている。ハイドロプレーニング現象的姫路城紹介で姫路城の中を滑るように駆け抜けたい。たぶん無理だと思うけど。
 次回は天守閣の内部に入れるといいな。もし入れないようなことになると、訪問記は5回シリーズくらいの長期連載となってしまう。なんとか3回くらいにまとめたい。難しいなぁ。頑張ろう。
 第二回につづく。


名古屋人の心の片隅にひっそり咲いている金鯱を踏まないで
2007年01月13日 (土) | 編集 |
金鯱レプリカ

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/400s(絞り優先)



 名古屋を歩けば金シャチに当たる。そんなことわざが成立してもおかしくないほど名古屋には金シャチがあふれている。お城の屋根の上だけにとどまらず、名古屋市職員は鯱のマークのバッジを胸につけ、交通局や消防署には鯱のキャラクターがいる。マンホールは鯱の絵が描かれ、自衛隊の戦車にも鯱が描かれるという思い入れの強さ。どんだけ鯱が好きなんだと、名古屋人からもツッコミが入るほどだ。シャチハタなど鯱にちなんだ名前の会社などもたくさんあり、サッカー名古屋グランパスエイトのグランパスも鯱という意味だ。戦前はプロ野球球団の名古屋金鯱軍もあった。
 そんな中、もっとも象徴的とも言える金シャチが、かつて名古屋港にいた、金シャチの姿をした「金鯱号(きんこごう)」だ。その存在のあまりのシュールさに、名古屋人も環境客も乗ることに二の足を踏んだという伝説の遊覧船。とうとう廃船の憂き目を見ることになってしまったのは2000年のことだった。一度は目をつぶってでも乗りたいと思っていたのに残念だ。しかし、悲しむなかれ、あれから金鯱号は韓国に渡って余生を過ごしているのだという。韓国の南、羅老島(ナロド)というところで観光船をやっているらしい。なんでも個人所有で、今は金魚号とかいう名前になっているとか。地元の人にはタイ焼きみたいと言われているらしい。けど、韓国で乗る金鯱号ってどうなんだろうと思う。ちょっと違うんじゃないだろうか。個人的には、名古屋城のお堀に小型の金鯱号を運行させればいいと思う。イタリア村のゴンドラがあんなに人気なのだ、名古屋城の金鯱号だって人気爆発間違いなし。ホントにやらないかな。
 お菓子関連も当然たくさんある。金鯱モナカとかサブレとかまんじゅうとかあれやこれやが。一番のおすすめは、JR名古屋駅地下街のカフェ「黐木(もちのき)」の「シャチボン」だ。金鯱の姿をした巨大なシュークリームで、そのインパクトの強さからかなりの人気になっているという。1個340円で1日80個限定なので、なかなかお目にかかれない。予約すれば食べられるのだろうか。一度食べてみたいと私も思っている。
 愛・地球博が愛知万博ではなく名古屋万博だったとしたら、間違いなくメインキャラクターは鯱にちなんだものとなっていただろう。モリゾーとキッコロは、シャゾーとチッコロとかになっていたかもしれない。愛知万博でよかった。

 2005年、万博の年に、愛・地球博と連動する形で「新世紀名古屋城博」というのが開かれた。戦後の名古屋城が築城され以来、初めて金鯱は屋根から降ろされ、それを触れるということで大変な話題になった。期間中の週末は、お触り待ちの長蛇の列ができて触るのに2時間、3時間もかかったという。名古屋中をパレードまでした。名古屋の人たちは、それはもう大喜びさ。たぶん、その熱狂ぶりは県外までは伝わってなかったと思うけど。
 それ以前に金鯱は一度だけ海外に渡ったことがある。当時まだ本物の国宝だった時代の明治4年(1871年)に、いったん東京の宮内省に納められて博覧会を回った後、明治6年(1873年)にウィーン万国博覧会に出品されたのだった。そのときはヨーロッパでも大評判になったんだとか。天守閣に戻ったのは明治12年というから、8年も不在だったことがあったのか。今回は半年間だったけど、金鯱のいない名古屋城はなんとも間が抜けていて脱力感を誘うものだった。

 金鯱は3つの読み方がある。「きんしゃち」、「きんのしゃちほこ」、「きんこ」と。少し混乱があるのだけど、シャチというと海のギャングと呼ばれる実在の生き物で、「しゃちほこ」というとこれは魚の形をして虎の頭を持つ想像上の生き物ということになる。当然城の屋根に乗っているのはシャチホコの方であってシャチではない。だから、私もシャチホコと書いた方がいいのかもしれない。
 シャチホコは、中国の伝説の海獣「鴟尾(シビ)」が変形したものだと言われている。火が起きると口から水を出して消すという言い伝えがあり、そこから守り神として天守などに置かれるようになった。日本では飛鳥、奈良時代からシャチホコが登場したという。
 城の天守閣にシャチホコを最初に載せたのは織田信長だった。安土城に載せたのは、守り神というだけでなく威光を示すためでもあっただろう。ただ、それはまだ目やウロコだけが金という姿で、初めて全身を黄金にしたのは豊臣秀吉の大阪城だった。金ピカ趣味の秀吉らしい。伏見状にも当初は金鯱が載っていた。倹約家のイメージ強い徳川家康さえも黄金の金鯱を江戸城に置いたところを見ると、やはりこの地方の人間は金鯱を置かずにはいられない何かがあったのだろうか。
 しかし、火から守るはずの金鯱たちは、ことごとく燃えてしまい、江戸時代の中頃までには名古屋城にのみ残るだけとなっていた。

 名古屋城築城当時の金鯱は、それはもう素晴らしいものだった。慶長大判1,940枚を引き延ばして作られた金鯱は、現在の価値に換算すると金だけで一体4億円ほどになる。18金メッキとは明らかに違う黄金の輝きを放っていたことだろう。
 しかし、尾張藩の財政難に伴い、3度改鋳されている。純度の低い金に替えられ、銅や鉛が混ぜられ、最後はたくさんの銀を混ぜて薄塗りになったことで輝きは鈍った。それを知られるのをふせぐために、鳥除けと称して金網が張れていたのだった。ウロコが強風で吹き飛ばされるほどだったというから、明治の頃にはかなりボロボロだったのだろう。金網を張る前は鳥の巣になっていたそうだ。
 そんな金鯱だけど、やはり魅力的には違いない。一般庶民だけでなくドロボウさんたちにとっても。一番有名な話が、柿木金助の大凧伝説だ。風の強い日に自らを大凧にくくりつけて名古屋城の屋根に降り立ち、ウロコ3枚を盗んだという。ただしこれは芝居で上演されたときの話で、実際は土蔵に押し入って舟で逃げたらしい。結果的には捕まって、名古屋の町を引き回しのうえ、はりつけの刑に処せられている。
 その他、明治に入ってからもいくつかの盗難事件が起こっている。陸軍の兵隊がウロコ3枚盗んで見つかって銃殺にされたり、懲役刑になったりしている。昭和(12年)に入ってからも、調査中のウロコ58枚が盗まれて名古屋市長が責任を取って辞任したりしている。たかがシャチホコじゃないかと思うかもしれないけど、国宝ドロボウと考えれば当然罪は重くなる。昭和の盗難も、売ろうとして足がついて捕まって、懲役10年になった。
 昭和20年の終戦の年、金鯱はB29が投下した焼夷弾によって天守閣と共に消えた。見たこともないような色とりどりの火と黒煙を上げながら焼け落ちたという。焼け残った金からは、ミニサイズ(1/20)の金鯱と金の茶釜が作られている。
 昭和34年、天守閣の再建の後、市民の強い希望で金鯱も再現されることとなった。使用された金は88キロ。檜の芯木に鉛板を張って、その上から銅板で被い、18金のウロコを張り付けてある。大阪造幣局の地下で作られたそうだ。
 金鯱にはオスとメスがいるというのは割と有名な話だ。北がオスで、南がメス。大きさや重量、ウロコの数や姿も微妙に違っている。写真を見て瞬時にオスメスを見分けられたらホンモノの名古屋っ子と言えるだろう。私はニセモノの名古屋人なので区別はつかない。

名古屋城おみやげ

 名古屋城展望台のおみやげ売り場も、シャチホコと金ピカグッズにまみれている。これほど金ピカ度の高いおみやでコーナーというのも全国でもあまりないんじゃないだろうか。金シャチの金とシャチを勝手に分離して金までおみやげにしてしまおうという作戦だ。金鯱キーホルダー、金鯱ストラップ、金鯱ピンバッジ、金鯱ネックレス。もちろん、そのものずばりの金鯱のミニチュアや、名古屋城のミニチュアも各種取り揃えてある。ここまで統一感を持たせてあれば、もう何も言えなくなる。ただただ金鯱に圧倒されるばかりだ。名古屋人はそんなに金ピカ趣味とかではないのだけど。
 実際のところ、名古屋っ子にとって金鯱とはどんな存在かといえば、県外の人が思うほど親しみのあるものではない。普通の人にはまったく無縁のものだ。名古屋の女子高生がみんな金鯱ストラップをじゃらじゃらさせているとかそういうことはない。もしひとつでもつけていようものならクラス中の物笑いのタネになりかねない。ある意味では地雷的な存在とも言える。けど、よその人に金鯱のことを悪く言われることを名古屋人は好まない。自分たちで悪口を言うのはいいのだ、でも他人に言われたくないっていう屈折したところがあるのが名古屋人にはある。これは日本人と外国人の関係性に似ている。
 私も金鯱にまつわるものは何も持っていない。部屋を見渡しても、ミニチュア金鯱も置いてないし、壁に名古屋城のペナントも貼ってない。金鯱マーク入りの木刀を枕元に置いてるなんてこともない。そういえば金鯱のおみやげ類も食べた記憶がない。それくらい縁遠いものなのだ。でも、嫌いなわけじゃない。金鯱がいない名古屋城を見るたびに、自分ってけっこう金鯱大事に思ったんだと気づいた。なくして初めて気づく大切さ、ごめんよ、金鯱くん。これからはもっと金鯱のいいところをみんなに伝えていくよ。いつかお金持ちになって豪邸を建てることになったら、屋根には金鯱を載せよう。




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