現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
綱渡りのスケジュールを渡りきった赤目シリーズ <プロローグ>
2008年07月31日 (木) | 編集 |
赤目プロローグ-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8II



 近鉄の株主でも何でもない私だけど、近鉄株主優待乗車券が安く手に入ったので、赤目方面へ近鉄沿線の旅へ行ってきた。そして私は自分の歩き力の限界を知った。アップダウンの道5時間と平坦な道2時間の合計7時間、暑さも加わって、ウォーキングハイを通り越してウォーキングローの中で気が遠くなりそうだった。よい子のみんなは真夏の昼間に7時間も歩いちゃいけないぞ。
 途中からはヒザもおかしくなって、私はもうしばらく歩きたくない人となった。向こう3ヶ月くらいは歩くのをやめにしたいくらいだ。歩くという行為に飽きたと言ってもいい。ドクター・中松が発明したフライングシューズでも買おうかな。
 そんなわけで、今日はダメージが深すぎて通常の更新はできそうにない。とりあえず赤目シリーズのプロローグということで写真だけ並べておこう。
 コースとしては、赤目四十八滝を見て、長谷寺と室生寺を回ってきた。いくら沿線沿いといっても、このコースを一日で回る人はあまりいないと思う。ましてや名古屋から日帰りの往復だ。スケジュールはぎちぎちで、バスも電車も一本も逃せないという綱渡りだった。最後室生寺から駅までのバスがなかったのが痛かった。あれさえ5時台にあればここまで深いダメージを追うことはなかった。国宝のある奈良県の寺とはいえ、東大寺などのメジャーな場所ではないから仕方がないところか。

赤目プロローグ-2

 当日のスケジュールはこうだ。
 朝5時前起床。6時30分家を出発。バス10分、地下鉄25分を乗り継いで名古屋駅着が7時20分。7時41分近鉄急行伊勢中川行き9時2分中川着、9時3分中川発。大阪線急行上本町行きで9時51分赤目口着。9時59分三重交通赤目滝行き。10時10分着。
 巌窟滝まで休憩なしのノンストップで3時間歩いて13時。13時10分赤目口駅前行きバス、13時20分着。13時30分近鉄急行、榛原着13時43。13時49分準急上本町行き13時53分着。
 長谷寺まで徒歩20分、14時15分着。見学45分で15時長谷寺から徒歩15分で長谷寺駅戻り。15時16分発準急榛原行き。15時21分榛原着。15時32分急行青山町行き。15時37分室生口大野着。
 室生寺行きバス15時50分発(最終)。16時5分、室生寺着。17時まで見学。帰りのバスがないため、駅まで7キロ徒歩1時間45分。18時50分室生口大野駅着。
 19時4分発準急名張行き。19時13分名張着。快速急行鳥羽行き19時19分発。20時7分伊勢中川着。20時8分急行名古屋行き。21時25分近鉄名古屋着。21時35分名鉄バス。22時25分帰宅。
 列車トリックでアリバイを作る推理小説でも書くのかってほどの分刻みのスケジューリングだった。普段一人旅の場合は、もっと大雑把な計画で行き当たりばったりなのだけど、今回はスケジュールを考えている段階ですべてがパズルのようにはまって、それを動かせなくなってしまったのだった。
 これと同じスケジュールで誰か行ってくれないだろうか。そして、苦労話で盛り上がりたい。言っておくけど、昼ご飯の時間も、夕飯の時間も、無駄に座る時間も、一切スケジュールには組み込まれてません。

赤目プロローグ-3

 ここからはもう、コメントは短く。
 赤目四十八滝についてはまたあらためてちゃんと書きたい。写真もたくさん撮ってきたから、3回くらいに分けて紹介することになると思う。

赤目プロローグ-4

 滝を撮りに行ったとしても、滝だけが被写体じゃない。
 ここは紅葉の名所でもあるけど、川面に映えるグリーンワールドも素晴らしい。

赤目プロローグ-5

 たぶん、どの滝が好きかというアンケートを取ったら、この荷担滝がナンバーワンになるだろう。写真からはスケール感が伝わらないのだけど、実物はかなり大きくて、とても印象的な滝だ。これを見るだけでも赤目へ行く価値がある。

赤目プロローグ-6

 赤目といえばオオサンショウウオでも有名だ。ひょっとして川に天然のやつがいるんじゃないかと探してみたけど、まあ、いないな。特別天然記念物がそのへんで普通に泳いでるわけがない。
 水の透明度は高くて、いろんな魚がたくさんいた。もちろん、魚釣りも魚獲りも禁止だ。

赤目プロローグ-7

 なつかしいサイダー。でも買わない。炭酸を飲むと腹はふくれるけど余計に喉が渇く。
 散策の間だけで2.5リットルのアクエリアスと、午後の紅茶と、カフェオレを飲んだ。

赤目プロローグ-8

 長谷寺の門前町は、古い家並みが残る観光地だった。これは知らなかったから、思いがけない収穫となった。いずれその写真もまとめて載せたいと思っている。

赤目プロローグ-9

 今回の二つの寺は、国宝巡りだった。長谷寺はなんといっても本堂がカッコよかった。重文の仁王門と登廊も素晴らしい。

赤目プロローグ-10

 室生寺の仁王門と、早くも早く染まり始めたモミジ。

赤目プロローグ-11

 今回一番見たいと思っていたのが、この室生寺の五重塔だった。平安初期に建てられたもので、法隆寺に次いで2番目に古いとされている。日本最小の五重塔でもある。
 最初見たとき、ちっちゃいなと思ったけど、近づいてみると身にまとった国宝オーラに圧倒された。こりゃ、本物だと恐れ入る。長谷寺にも立派な五重塔が建っているけど、あれは昭和に建てられた新参者ということで、本物感は弱い。

赤目プロローグ-12

 名張駅があんなに大きな駅だとは知らなかった。名張なんて何があるというわけでもないだろうに。どうやら、大阪や奈良のベッドタウンとなっているから、というのがその理由のようだ。特急の始発駅にもなっているから、線路も多い。
 近鉄は常に特急優先で、急行などはホームで特急2本が追い抜いていくのも待つなんてこともよくある。
 今回はこだわりで特急を使わなかったけど、行き帰りで特急を使えば、スケジュールは多少緩やかになった。

 日光シリーズもまだ途中になっているし、明日からどういう順番で書いていくか、まだ決めていない。まずちょっとゆっくり休んで、明日考えることにする。
 今日はこれくらいにしておこう。


華厳の滝のズーム連続写真と藤村操と夏目金之助先生 〜日光第三回
2008年07月25日 (金) | 編集 |
華厳の滝-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 私は昔一度、華厳滝(けごんのたき)を見たことがあるような気がする。前世とかそういうことではなく、もう少し近い過去に。確か小学生か中学生のときだったとは思うのだけど、記憶が曖昧ではっきり思い出すことができない。もしかすると中学の修学旅行で東京と日光へ行ったんだっけ? 誰にともなく訊ねてみたくなる。それにしては東京にしろ日光にしろ、その他のことをまったく覚えてないから、やっぱり行ってないんだろうかという気にもなってくる。京都・奈良に修学旅行で行ったことは覚えている。あれが小学校とするならば、やはり中学は東京・日光だったのか。しかし、中学の修学旅行をそんなにも簡単に忘れてしまうものだろうか。自分の記憶力のなさが怖い。
 だから今回、実際に華厳の滝を目の当たりにすれば何か思い出すんじゃないかと期待していた。そして華厳の滝の前で私は再び考え込むこととなる。うーん、来たような来てないような。アンチ・デジャブとでも言うべき思い出せなさ。来たはずなのに来てると思えない。何かつらい思い出があって、記憶そのものが封印されているとでもいうのか。
 結局、何一つ思い出せずに終わった。周囲の景色にも見覚えがない。いつか中学の同級生に会ったら訊いてみよう。修学旅行ってどこ行ったっけ、と。まるで視界1メートルの霧の中にいるような感じだ。

華厳の滝-2

 華厳の滝を近くから見られるのは基本的に2ヶ所しかない。上の写真は無料の滝見台からの眺めで、もう一つは有料エレベーター(530円)に乗って下に降りて見るところだ。今回私たちは無料のところから見るだけで終わってしまった。エレベーターは、待ち時間をあわせると30分ほどかかりそうだったので、時間の関係で断念した。そのあとのことを考えると正解だった。中善寺温泉始発のバスが1時間遅れで、その列に並んでぎりぎり乗ることができたくらいだから、1本バスを逃していたら致命的だった可能性があった。
 ただ、一ヶ所からしか撮れなかったから、華厳の滝の写真は収穫があまりない。ほとんど同じ写真ばかりで、面白くない。ズームの加減が違う写真を並べるだけになってしまう。それに、近くから撮る華厳の滝は、どうも迫力に欠ける。豪快さが写真からは伝わらない。

華厳の滝-3

 ここまで寄って撮れば、滝の水量やゴォーっと流れ落ちる感じが少しは伝わるだろうか。
 時期によって水量は変化して、毎秒1トンから3トンくらいだそうだ。1トンの衝撃でも頭蓋骨が骨折するというから、ここの滝で打たれて修行することはできない。むち打ちどこじゃ済まない。
 この日はけっこう多めだったんじゃないだろうか。一番豪快なのは台風や大雨のあとで、何十トンとかになることもあるそうだ。
 滝の高さは97メートル。あれだけ水量のある中禅寺湖の唯一の流出川である大谷川から流れ落ちる滝ということで、この豪快さを生み出している。和歌山県の那智ノ滝(なちのたき)、茨城県の袋田ノ滝(ふくろだのたき)と共に日本三大名瀑とされている。よく分からないけど、2007年には日本の地質百選にも選ばれたらしい。美しい地質の基準とは何だろう。愛知県からは鳳来寺山が選ばれた。
 日光にはこの他にも竜頭の滝や湯滝、霧降の滝など、たくさんの滝がある。滝マニアにはたまらないところだ。華厳の滝だけ見て満足してるようじゃ滝の素人だなと、彼らはきっと思ってる。滝の玄人になりたいとは思わないけど。 
 華厳の滝を発見したのは昨日も書いたように勝道上人で、華厳の滝と名づけたのも上人だったのかもしれない。大乗仏教の経典の一つ『大方広仏華厳経』から取られたようで、他にも涅槃の滝(ねはんのたき)や、般若の滝(はんにゃのたき)などがある。
 ちなみに、華厳経の本山は奈良の東大寺だ。

華厳の滝-4

 更に寄ってみた。脇にチョロチョロ流れている伏流水を十二滝と呼び、これも華厳の滝の魅力の一つとされている。確かに言われてみれば直下する中心の流れと、その周りで彩りを添えるような繊細な流れとがあいまって造形美を形成している。これはズームで撮らなければ気づかないところだった。
 冬場はこの十二滝が凍って、ブルーアイスになるんだそうだ。それはきっときれいだろう。
 6月には滝の周りをたくさんのイワツバメが飛び交うという。それも見たかった。
 険しい地形ゆえに華厳の滝を間近から見られるようになったのは、発見からずいぶんあとの明治33年(1900年)以降のことだ。星野五郎平という人が、滝壺近くに茶屋を開くために7年もかけてこのあたりを切り開いたのが始まりだった。
 エレベーターが完成したのは更にあとの昭和5年(1930年)だった。岩盤が堅く、くり抜くのに苦労したという。
 これだけの滝だから観光名所になるのは宿命だったに違いないけど、もし星野五郎平が華厳の滝を観光地にしようとしなければ、藤村操(ふじむらみさお)がここから飛び降りて自殺することはなかったかもしれない。華厳の滝の自殺者第一号が出たのは、明治36年5月のことだった。
 18歳だった旧制一高の藤村操は、この滝の近くにある樫の木を削って、「巖頭之感」と題する遺書を残して投身自殺をした。
「悠々たる哉天壊、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリチィーに値するものぞ。萬有の真相は唯一言にして悉す。日く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。」
 エリート学生の自殺は社会に衝撃を与え、以来、それを真似て自殺する者が相次ぎ、華厳の滝は自殺の名所となってしまう。
 このとき、藤村操の英語担当の教師が、夏目漱石として小説を書き始める前の夏目金之助であった。第一高校というトップ高校の英語教師は帝国大学の英文科教授が務めるのが決まりで、国費で英国留学を終えたばかりの夏目金之助がそれに当たることとなった。当時36歳の夏目金之助は、イギリスでさんざんバカにされて嫌な思いをして神経衰弱になっていた。このまま放っておくと危ないということで国に呼び戻されたばかりで、自身も二度と英国など行くものかと書いている。
 そんなこともあって、夏目金之助先生の授業は形式的で詰まらないともっぱらの評判だった。その前の英語教師が小泉八雲ことラフカディオ・ハーンで、そっちの評判がよかっただけに余計夏目先生は生徒たちの受けが悪かったようだ。
 自殺する一週間前、藤村操は夏目先生に叱られている。宿題をやっていなかったことをとがめられ、そして翌日もまたやっていかず、「勉強する気がないなら、教室へは来なくてもいい」と、二度目はきつく叱られた。
 自殺の知らせが入った翌日、夏目先生は生徒たちに訊ねている。「藤村はどうして死んだんだい」と。自分が叱ったせいかもしれないと思って、かなり動揺していたという。このことが夏目金之助の神経衰弱を更に悪化させる要因になったとも言われている。
 社会的にはエリート学生が人生に悩んで自殺してしまって気の毒にという捉えられ方だったようだけど、学識者の間では藤村の死を巡って大いに議論が交わされることとなる。学生の厭世観や死生観について、また、この自殺が是か非かということだったのだろう。
 一高の一学年上にのちの岩波文庫を創設する岩波茂雄がいた。岩波は藤村と知り合いだったということで大いにショックを受けて、信州野尻湖の弁天島に夏の間こもって泣き暮らして、その年は落第してしまったのだった。
 この話には落ちがある。これだけ世間を騒がせ、議論を呼んだ自殺の原因が、哲学的な厭世観ではなく、実は失恋によるものだったというのだ。片思いの相手は、菊池大麓の長女菊池多美子で、多美子はこの年、のちに憲法学者となる美濃部達吉と結婚したのだった(達吉の父親は東京都知事を務めた美濃部亮吉)。
 本人も遺書の中で悲観と楽観は一致すると書いているけど、悲劇と喜劇は紙一重と思わずにはいられない。皮肉といえば皮肉な話だし、自殺せずに長生きすれば笑い話にもなったろうに。
 けど、100年経った今でもこの話が伝わり、名前が残ったことも思えば、生きた証としてこの世にひっかき傷のようなものを残したと言えるかもしれない。警察が写した「巌頭之感」の写真のコピーが現在もおみやげとして売られている。現代は大きな事件を起こしても、ひと月やそこらで忘れ去られてしまうことを思えば、一つの問いかけとしての価値はあるようにも思う。
 それにしても、飛び降りたというのはどの場所だったのだろう。滝の上は相当険しい地形だから、そう簡単に近づけるような場所ではない。あそこまで辿り着ける根性があったら、何かもっと他にもできそうなのに。あそこまで行ってみろと言われても、たいていは途中で挫けてしまいそうだ。
 2年後、夏目金之助先生は夏目漱石というペンネームで小説を書くことになる。それが第一作の『吾輩は猫である』だ。神経衰弱の気を紛らわすために書き始めたとも言われている。奥さんによると、苦虫を噛み潰したような顔でイヤイヤ書いていたそうだ。
 最初は友達の高浜虚子にすすめられて書いた『猫伝(ねこでん)』という読み切りの短編小説だった。それが評判となり、続きを書けということで『吾輩は猫である』というタイトルで全11回連載して長編になった。
 小説の中で、相談に来た学生を冷たくあしらった主人がこんなことを思う文章が出てくる。「可哀想に。打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。」
 皮肉や揶揄のようにも思えるけど、心に深い傷として残っていたことの表れともとれる。

華厳の滝-5

 横から見た華厳の滝。昔はこんな感じで、全体を見渡せる場所はあまりなかったんじゃないだろうか。特に夏の時期は葉が生い茂っていて、目隠しになってしまう。春先から晩春あたりがいいのかもしれない。

華厳の滝-6

 でも結局、明智平から見る華厳の滝が、風景としては一番だ。滝の雄大さがよく分かる。
 こうしてみると、中禅寺湖からはだいぶ離れているように見える。けど、これだけの水量だから、滝の落ち込み口は年々浸食されていて、滝ができてから2万年の間に800メートルほど中禅寺湖寄りに移動したと言われている。近年では1976年と1986年に、大規模な崩壊が起こっている。この先、500年から2000年の間に、ひょっとすると落ち口が中禅寺湖に達するかもしれないという。そうなると、もはや滝というより湖から水が溢れ出してしまう決壊だ。崖を大きく削って、ざばーんといってしまうんじゃないか。ナイアガラの滝みたいになって、それはそれでいいのか。
 街の風景だけでなく、自然の景色も長い歳月の間には移り変わっていく。もし私が中学のとき本当に華厳の滝を訪れているとしたなら、そのときに見た華厳の滝と、1986年の崩壊以降の滝とは姿が違っているはずだ。そんなことを考えると、また最初の状態に戻ってしまう。本当に日光は二度目なのか、初めてなのか、どっちなんだろう。東照宮も見てるのやら見てないのやら。うーん、覚えてないなぁ。この歳まで生きれば、若い頃の失恋の傷みなんてのも、すっかり忘れてしまった。


日光でゆったりできたのは中禅寺湖の遊覧船の中だけだった 〜日光第二回
2008年07月24日 (木) | 編集 |
中禅寺湖-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 日光といえば東照宮、華厳の滝、そして中禅寺湖と、この3つが代表的な観光地と言っていいと思う。猿軍団はどうしたとか、江戸村も忘れるなとか、いろいろ意見もあるだろうけど、とりあえず昔からの有名どころとしてはこの3つに違いない。個人的には1/25スケールで世界一周ができる東武ワールドスクウェアというのも気になっていた。
 この3点セットを日帰りで回ろうとすると、実はけっこう大変だ。渋滞していないときでも駅から中禅寺湖までは片道1時間くらいかかる。往復だと2時間。華厳の滝までは歩いて15分。東照宮をはじめとした寺社群をくまなく回るとライトコースでも2時間半、ヘビーコースなら4時間くらいを要する。それぞれの待ち時間などを考え合わせると、おちおち休んでもいられない。日光なんてお年寄り向きの観光地と思ってるかもしれないけど、あそこは元気なうちに行っておいた方がいいところだ。
 私たちは明智平へ寄っていったので、更にスケジュールはタイトになった。結果的には予定通りすべて回りきることができたのだけど、どこかでバスを1本逃していたら断念するところが出てしまうほどのぎりぎりさだった。バスを追いかけて走ったり、途中で親切なおじさまにいろいろ教えてもらったり、幸運にも恵まれた。
 そんなわけで、日光シリーズ第二弾は中禅寺湖編となる。

 中禅寺湖のあるあたりは、区分としては奥日光ということになる。いわゆる日光というと、駅から東照宮周辺と市街地を指す。その境目は、屏風岩(びょうぶいわ)あたりとされているようだ。
 もともと日光というのは、二荒山(ふたらさん)が転じたものとされている。男体山は二荒山とも呼ばれていて、二荒を「にっこう」と音読みして、それがのちに日光と表記されるようになったのだと。これについても天海が関係しているという話もある。
 日光を開いたのは、昨日も出てきた勝道上人(しょうどうしょうにん)だ。男体山に初めて登ったのも勝道上人ならば、中禅寺湖を見つけたのも、華厳の滝を発見したのも勝道上人だと言われている。勝道上人抜きには日光は語れない。そのあたりの詳しいことは、神社仏閣編のときに書きたいと思う。
 中禅寺湖は、2万年ほど前に男体山の噴火によってできた堰止湖(せきとめこ)だ。標高は1271メートルで、4平方キロ以上の湖では日本で最も高い場所に位置している。
 意外に知らない人もいるかもしれないけど、華厳の滝はこの中禅寺湖から流れ出る水でできた滝だ。高さ97メートルの華厳の滝は、中禅寺湖の高さがあったから生み出されることになった。
 一番深いところで163メートルもあるから、湖底は華厳の滝の滝壺よりも更に深い位置になる。
 周囲約25キロは、日本で25番目に広い湖でもある。

中禅寺湖-2

 観光客として中禅寺湖を訪れて何をするかといえば、やることはだいたい3つしかない。湖をぼぉーっと眺めるか、ボートで湖にこぎ出すか、遊覧船に乗るか。我々は遊覧船を選択した。足こぎスワンボートはツレに却下された。手こぎボートは難破する恐れあるので自粛した。
 湖の周囲はそれなりに店などもあって、観光ムードが色濃い。奥日光の静かな湖みたいなものをイメージしていくと、俗っぽさにがっかりしてしまうかもしれない。奥の方はいざ知らず、表側は避暑地というより完全に観光地化されている。
 中禅寺湖を避暑地として育てたのは、日本を訪れていた外国人たちだった。江戸時代には東照宮が建てられたこともあって参拝客や行楽客が大勢訪れるようになったものの、当時はまだ男体山一帯が女人禁制の聖域だったこともあり、観光地ではなかった。
 松尾芭蕉は奥の細道の途中でこの地を訪れている。1689年の4月、東照宮を見て、「あらたうと青葉若葉の日の光」と詠んだ。
 明治に入ってから、日光は大きく様変わりすることになる。明治5年(1872年)に女人解禁となり、たくさんの女性が訪れるようになった。このとき、牛馬も解禁となっている。それまでは神聖な土地ということで牛や馬もこの地に入ることは禁じられていたのだ。今でも馬返(うまがえし)と呼ばれる地名が残っているけど、これはここから先は馬は入れないから引き返したという意味だ。女の人が遠くに男体山を拝んだ場所には女人堂が残っている。
 翌明治6年には金谷ホテルが営業を始めている。外国人専用の金谷カッテージ・インとしての開業だった。
 明治9年には明治天皇が訪れ、中禅寺湖を幸の湖(さちのうみ)と名づけたという。
 上野から日光までの鉄道が開通したのは、明治23年(1890年)のことだった。
 外国の外交官などがこの地をリゾート地として選んだのは、風光明媚な避暑地というだけでなく、マス釣りが目当てだったと言われている。
 もともと中禅寺湖は堰止め湖だったため、魚はすんでいなかったらしい。それに聖地ということで殺生も禁じられていた。
 明治6年に日光在住の星野定五郎という人がイワナを放流したのがきっかけで、マスなどが次々と放流されたり養殖されるようになり、それに目をつけた外国人がスポーツフィッシングを始めた。イギリスを始め、ヨーロッパではフライフィッシングというのは紳士のたしなみの一つみたいなところがあったらしい。それを見た日本人たちも真似をするようになり、湖周辺には多くの別荘が建てられるようになった。
 現在でも外国大使館の別荘が何軒かあって、釣りに訪れる人も多いという。放流とはいっても稚魚の放流で、半分野生育ちなので、なかなか釣れないらしいけど。

中禅寺湖-3

 スワンボートに手こぎボート、モーターボートまである。この日は天気もよかったということもあって、たくさんのボートが湖に浮かんでいた。何しろ広い湖だから、うっかり遠くまで出てしまうと帰るのに時間がかかる。不忍池とは違う。
 手こぎでも1時間1,000円、スワンは1時間3,000円もするから、2時間も漕いだら6,000円にもなる。焦って漕いでいた人がいたけど、あれは時間オーバーになりそうだった人かもしれない。

中禅寺湖-4

 遊覧船クルージングは、一周コースで1時間弱、1,200円。直線移動の単発コースもある。
 1時間に1本で、丸まる1時間かかるから、ここでの時間調整を間違えると大きく時間をロスすることになる。
 船は揺れも少なく、ゆったりとして快適だった。1時間というのはちょっと時間を取られすぎるけど、のんびりするにはいい。
 湖上を吹きすぎる風も冷たくて気持ちがいいし、これはなかなかオススメだ。

中禅寺湖-5

 水の色は深い青緑で、水深の深さがうかがえる。
 かなり透明度の高い湖で、かつては透明度13.5メートルもあったようだ。最近の資料によると9.0メートルまで落ち込んでいる。原因は観光客が増えたことなのか、他にも何かあるのか。
 日本で一番透明度の高い湖は摩周湖で、25.5メートルとされている。然別湖、倶多楽湖、支笏湖と続き、中禅寺湖が13.5だったときは日本で7番目だった。

中禅寺湖-6

 カヌー軍団も湖に繰り出していた。遠目だったので子供だったのか大人だったのか判別できなかったけど、この日は風も穏やかで波もほとんど立ってなかったから、気持ちよかっただろう。下手な人間はひっくり返るのが怖くて気持ちいいとかではなかったかもしれない。

中禅寺湖-7

 男体山の山頂付近に終始雲がかかっていて、とうとう最後まで全体を見ることができなかった。でも、河口湖へ行ったときの富士山よりはずっとよく見えた。あの日は富士山運がなかった。

中禅寺湖-8

 船上で午後の予定を検討したところ、店に入って昼食を食べる時間がないことが判明。ツレ持参のワッフルとプチケーキでの昼食となった。船内にはジュースの自動販売機も置いてない。でも、1時間あるから、ここで持参の弁当を広げるというのは無駄がなくていい。テーブル席も用意されている。

中禅寺湖-9

 今回時間の関係でどうしても割愛せざるを得なかった中善寺(立木観音)を船から拝む。
 勝道上人が開山したお寺で、中禅寺湖の名前はここから来ている。日光山輪王寺の別院でもある。
 立木観音という通称は、本尊が桂の立木を勝道上人が彫った千手観音ということで、そう呼ばれている。
 中禅寺湖まではそうめったに行けないところだから、こことはすれ違ってしまった。もう一つ中禅寺湖畔には二荒山神社の中宮があって、どちらかしか行けないとなって、そちらを選んだのだった。結果的にはそれが正解だったことになる。もし、中善寺を選択していたら、後半の予定がガタガタになってしまった可能性があった。

中禅寺湖-10

 これは明智平から望遠で撮った中禅寺湖の様子だ。
 こうして中禅寺湖もしっかり堪能した我々は、二荒山神社中宮を参拝したあと、いよいよ華厳の滝へ向かうこととなった。そのときのことはまた次回。


明智平と名づけたのが天海だったとしてもしなくても 〜日光第一回
2008年07月22日 (火) | 編集 |
明智平-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 2008年の夏旅第一弾は日光だった。
 日光シリーズ第一回は、明智平(あけちだいら)から始まる。
 東武日光駅からバスに乗って約35分、上り専用道路の第2いろは坂を登り切ったあたりに明智平はある。標高は1274メートル。レストハウスなどのあるドライブインにもなっているため、車で訪れた人が休憩を兼ねて展望を楽しんでいく場所でもある。
 気をつけなければいけないのは、いろは坂は上りと下りがそれぞれ一方通行になっていることだ。明智平へ行くなら中禅寺湖へ向かう行きに寄っておかなければいけない。中禅寺湖へ行ってから帰りに明智平も寄っておこうと思っても行けないから。
 もともといろは坂はカーブが48あって、いろは48文字にたとえいろは坂と名づけられた。それが昭和29年(1954年)に道路が大幅に改修され、一時期カーブは少なくなっていた。その後、交通量が増え、昭和38年(1965年)にもう一本の道が作られることとなり、そちらを上り専用とし、元からあった方を下り専用とし、あわせてカーブを48として、再び48カーブを持ついろは坂に戻ったのだった。それぞれのカーブには、いろは48文字が名づけられて看板が出ている。
 下から山頂までは標高差が500メートルほどあるので、これくらいつづら折りにしないと車は登っていけない。

明智平-2

 これはドライブインの駐車場から見た眺めで、見えているのは男体山(なんたいさん)だ。日光の歴史はこの山から始まったと言ってもいい。
 日光というと、徳川家康が死んで東照宮が造られるまでは何もないところだったと思っている人も多いかもしれないけど、日光の歴史はもっと古く、関東有数の霊山として昔から信仰の対象となっていたところだった。
 この山に初めて正式に登ったのは、僧の勝道(しょうどう)という人だった。何度も挑戦しては失敗し、ようやく登ることに成功したのは、初挑戦から15年後の782年だったとされている。奈良時代末期のことだ。勝道48歳のときだった。
 男体山というのは、山続きの女峰山と対でつけられた名前のようだ。男と女がセットになっている山脈は、男女岳の駒ヶ岳など、他にもいくつかある。
 標高は2486メートル。昔は2484メートルとされていて、栃木っ子は県の西の端にあるから「にしっぱし」と覚えるのに便利だったのが、再調査で2486メートルとなってしまって覚えづらくなった。西の野郎などと覚えればいいかもしれない。

明智平-3

 ロープウェイの切符売り場。やけに涼しくて、エコを無視してエアコンをギンギンにかけてるのかと思いきや、ナチュラルに涼しいだけだった。ひんやりした空気は気温22度。明智平の標高を考えればこれくらい涼しいのは当然か。一般的には、標高1000メートル上がると5度から10度くらい下がるとされている。上に登ったロープウェイ駅は20度だった。
 全体的に昭和ムードが漂う乗車券売り場で、人数の数え方も手動のカウンターだったり、ときどき何かメモ書きなどもしていた。
 テレビには華厳の滝の実況中継が映し出されている。見え具合とか、水量とかを知らせるサービスということだろうか。

明智平-4

 斜めの必要性は見えなかったけど、気持ちはなんとなく分かる。平智明(たいらともあき)と読めなくもない。

明智平-5

 ゴンドラの名前は、「なんたい」と「けごん」。
 こんな古い施設の割にゴンドラがやけに新しい。帰ってきてから調べたところ、平成13年に大阪車輌工業で製造されたものだそうだ。
 油が飛び散るからあまり近づかないでくださいと、先頭の人が注意されていた。
 定員は16名と、かなり小さめだ。下から上までが3分という短い時間だからというのもあるのだろう。ダイヤはなく、2基が行ったり来たりして乗客を運ぶ。往復710円。
 明智平ロープウェイの営業が始まったのは、昭和8年(1933年)のことだった。当初は日光登山鉄道が営業をしていた。しかし、わずか10年で終了してしまう。採算が取れなかったのか、日光登山鉄道そのものの営業が傾いたのかもしれない。
 ロープウェイが復活するのは7年後の1950年、東武鉄道によってだった。東武鉄道は、1932年から1970年にかけて、馬返し駅から明智平駅を結ぶケーブルカー(東武日光鋼索鉄道線)も走らせていた。
 1985年には日光交通に営業が移り、現在に至っている。
 登りだけロープウェイで行って、帰りは中禅寺湖方面まで遊歩道が整備されているから、そこを歩いていってもいい。茶の木平まで1時間半というから、中禅寺湖までは2時間以上かかるだろうけど。

明智平-6

 ロープウェイの動力源。大きな車輪が回っていた。
 2駅の距離は約300メートル。勾配は最高30度。時速は9キロ。
 ゴンドラは新しくても、元の装置は昔のままなんじゃないだろうか。

明智平-7

 下りロープウェイとすれ違う。
 人が来たら運行するというスタイルをとっているので、タイミングによっては一人で乗ることになったりする。待たせないのは親切だけど、ゴンドラって、一人で乗る乗り物じゃないと思う。寂しいというか、照れくさい。すれ違うゴンドラに乗った人に写真を撮られがちだし。

明智平-8

 見下ろす下の駅と、遠くの山なみ。ゴンドラの中でしか見られない風景というのは特になさそうだ。
 途中にはヤマボウシやアジサイが咲いていた。季節の進み具合が遅いことが分かる。

明智平-9

 展望台と人々。
 男体山の山頂には雲がかかり、天気は悪くなかったものの、見晴らしはもう一つだった。
 夏場は涼しくていい。冬場は寒くて震え上がることになるだろう。雪が降ったら通行止めになるだろうから、真冬はここまで来られないのかもしれない。

明智平-10

 引きで見る華厳の滝と、奥の中禅寺湖。
 おおー、これはなかなかのものと感心、感激する。ここを訪れた人が誰しも撮ってしまうアングルの写真なのだけど、こういうふうにしか撮りようがない。
 紅葉の時期で晴れていたら更に素晴らしい景色になるのだろう。いろは坂の猛烈な渋滞を乗り越えてでも見る価値がある。
 しかし、あの渋滞はひどすぎる。もう一度鉄道を敷くとかなんとかできないものだろうか。この日も午後のバスは1時間遅れだった。

明智平-12

 寄りで見る華厳の滝。
 もしかしたら華厳の滝を撮るのはここがベストポジションかもしれない。華厳の滝の展望台からは滝壺が見えないし、エレベーターで下りるとアングルは下からになってしまう。ここからなら落ちるところから滝壺まで全体の様子を撮ることができる。望遠としては300mmレンズくらいがちょうどいい。

明智平-13

 ここを明智平と名づけたのは天台宗の大僧正・天海(てんかい)だとされている。天海の正体は実は明智光秀だったという説の一つの根拠となっているのがこのエピソードだ。
 天海というのは、徳川家康のブレーンとして江戸幕府成立に関わった重要な人物で、謎の多い人としても知られている。本人も自分の出自については語らなかったというけど、通説では陸奥国(現在の福島県大沼郡)で1536年に生まれたことになっている。織田信長の2歳下だ。小説などでは足利将軍家12代足利義晴の隠し子などと描かれることもある。
 幼い頃から聡明で、14歳のとき宇都宮粉川寺の皇舜僧正に学んだのをはじめ、比叡山、三井寺、興福寺などで修行をして、いろいろな寺の住職にもなったとされている。武田信玄の元に呼ばれたり、後陽成天皇に説教をしたという話もあるくらいだから、通説を信じるなら明智光秀が天海になったなどという話はまったく根拠のないでたらめということになる。
 はっきりと歴史の表舞台に登場するのは、1588年に武蔵国の無量寿寺北院へ行って、天海を名乗るようになってからだ。
 その後、天海が75歳のときの1610年、駿府城で徳川家康に対面した。68歳の家康は天海の話に深く感銘を受けて、もっと早く天海に会いたかったと言ったという話が伝わっている。
 しかし、実はもっと早い段階で天海は家康に会っていたという説もある。関ヶ原の合戦のときにはすでに参謀として家康と共にあったというのだ。いずれにしても、天海の前半生は謎に包まれている部分が多い。このことが明智光秀同一人物説を生むことにもなる。
 江戸幕府では家康と朝廷との交渉役を任され、二代将軍秀忠、三代家光と三代に渡って仕えることとなる。江戸の都市作りにも関わり、風水や陰陽道の考えを取り入れたのも天海だったと言われている。
 1613年には日光山の住職として任命され、これによって日光は大いに繁栄することとなった。このとき、日光で一番見晴らしがいい場所に明智平と名づけたのだという。
 1616年、危篤となった家康は葬儀に関することを天海たちに任せてこの世を去る。当初は遺言によって駿府の久能山(今の久能山東照宮)に埋葬された。
 この後、家康をどういう神様として祀るかでもめ事が起きる。崇伝や本多正純たちは明神として祀るべきだと主張したのに対して天海は、権現として祀るべきと言い張った。豊国大明神として祀られた豊臣秀吉と同じではよくないというのがその理由だ。
 結局、天海の主張が通り、一周忌の際に家康の墓所は久能山から日光の東照社に移され、東照大権現となった。とのとき建てられたのが輪王寺(りんのうじ)で、現在の立派な東照宮が建つのは、三代将軍家光のときだ。
 工費の上限なしという命令で建てられた東照宮は絢爛豪華な社殿で埋め尽くされた。1636年、これを寛永の大造替と呼んでいる。
 天海はその後108歳まで生き、遺言で日光の大黒山に埋葬された。

 こうして書くと、天海と明智光秀を結びつけるものは明智平の命名くらいしかない。しかし、もちろん、この説の根拠はそれだけではない。
 たとえば、東照宮に光秀の家紋である桔梗がたくさん彫られているとか、二代将軍の秀忠と三代家光は光秀から名前が取られているとか、光秀の家老だった斎藤利三の娘が家光の乳母となり、のちに春日局となって大奥のトップに上り詰めた不自然さなどが根拠として挙げられている。家康も光秀に対しては尊敬心を抱いていたようで、信長を討ち果たしながらも秀吉に敗れて落ちのびた光秀を匿ったというのもあり得る話だったかもしれない。いくら逃げ延びている山中とはいえ、一介の農民に光秀が簡単に討ち取られるとも思えないし、それが影武者だった可能性も大いにある。
 ただ、それぞれの根拠に対する反論も当然ある。まず年齢が合わない。もし光秀が天海になったとすると、116歳まで生きたことになってしまう。時代を考えるとちょっとあり得ないだろう。桔梗の家紋も特別なものではなく、将軍の名前もこじつけだし、逆にそうだとしたらあからさますぎる。それに、信長を討った光秀が生きていて、それを家康が参謀にしたなんてのは問題すぎる。織田家家臣の生き残りなら光秀の顔を知っているわけだし、そのとき騒ぎにならなかったはずがない。
 結局のところ、まったくのとんでも説だと笑い飛ばしてしまったらいい。のかと思うと、話は単純ではない。近年になって天海と光秀の筆跡鑑定をしたところ、同一人物ではないものの特徴に一致するところがあり、ごく近しい関係の人物ではないかという結果が出たというのだ。これで話はまたややこしくなり、浮上したのが光秀の甥とも従兄弟ともいわれる明智秀満の存在だ。
 明智左馬助としてゲーム「鬼武者」の主人公となったあの人物がのちに天海になったのだという。もちろん、信憑性のほどは分からない。史実では、山崎の合戦で光秀が敗れたことを知った秀満は、本拠の坂本城に入って一族と共に自刃したということになっている。あるいは、琵琶湖を馬で渡ってどこへともなく消えたという伝説があり、のちにそれは「左馬助の湖水渡り」として描かれることとなる。
 日本の歴史上、いくつかの伝説や珍説がある。本能寺の変で信長は死なずに生き延びたとか、義経は平泉を脱して北海道に渡り、更に大陸に渡ってチンギス・ハーンになったとか、徳川家康は途中から影武者が成り代わったのだとか、芭蕉は幕府の隠密だったとか、天草四郎は豊臣家の生き残りだったとか、あれやこれや。天海イコール光秀説もその中の一つだ。この中のどれかに真実があるのかないのかは分からない。今となってはどれも知りようがないことだ。
 個人的には、家康影武者説というのはけっこう信じている。本物の家康はどこかで死んで、途中で世良田二郎三郎元信と入れ替わったのではないかと。そのことと天海、光秀がどこかで結びつくとまた面白い話になる。明智光秀もまた、前半生がよく分かっていない人物だから、想像はあれこれ広がっていく。
 もしタイムマシンが実用化されたら、未来を見たいという人と、過去を知りたいという人とがいると思うけど、私はまず過去へ行きたい。坂本龍馬の暗殺犯は誰だったのかとか、たくさん知りたいことがある。
 もし行ってきて、いろいろ分かったらここで報告しよう。それこそ天海のように108歳くらいまで生きて気長に待っていて欲しい。
 途中から大いに脱線したけど、日光シリーズ第一弾明智平編はこれにて終了となる。次回は中禅寺湖編の予定です。




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