現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
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かつての面影が残っていない鎌倉五山の浄妙寺に栄枯盛衰を思う
2007年12月18日 (火) | 編集 |
浄妙寺-1

PENTAX K100D+SIGMA 17-35mm f2.8-4



 杉本寺をあとにして、更に金沢街道を行く。5分も歩くとバス停の浄明寺があって、そこを左に行けば浄妙寺、右へ行けば報国寺となる。どちらから行ってもよかったのだけど、気分で浄妙寺を先にした。
 ここら一帯は浄明寺という地名になっていて、お寺の浄妙寺とは地が違っている。同じ字を使うのは畏れ多いということで変えたんだそうだ。かつての浄妙寺は鎌倉五山の第五位という大寺院だったから、そういうこともあるだろう。
 帰りは浄明寺のバス停からバスに乗って鎌倉駅まで戻った。歩くと遠いけどバスならすぐだ。渋滞さえなければ10分もかからない距離だ。

 浄妙寺は我々の鎌倉五山巡り最後のお寺となった。ゴールデンウィークのときに、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺と一気に4つ回って、浄妙寺だけが離れたところにあったので行けずに残った。寿福寺もゴールデンウィークの特別公開とかで知らない間に中に入っていた。
 鎌倉五山といっても、その後の衰退が激しく、現在も大寺院として生き残ったのは建長寺と円覚寺だけとなっている。今回行った浄妙寺も普通の規模のお寺となっていて、七堂伽藍と塔頭二十三院を抱えていたという全盛期の面影はもはや残っていない。拝観料も控えめで100円だ。
 それでは総門をくぐって中に入ってみよう。

浄妙寺-2

 門から真っ直ぐ伸びた参道の先に大きな本堂が建っている。禅寺らしい構えだ。しかし境内は狭い。かつてはどんな規模だったのか分からないけど、こんな狭い中には七つもの伽藍は入らない。もっと横幅も奥行きもあったのだろう。今は本堂だけがわずかに過去の栄華を偲ばせる。
 今は銅葺き屋根となっているけど、何十年か前までは茅葺きだったそうだ。近年の茅不足と手入れの大変さから銅葺きになってしまったらしい。この規模で茅葺き屋根のお堂は立派な姿だったろう。そのとき見たかった。
 堂は江戸時代中期の1756年に再建されたものだ。
 境内には他に、客殿、庫裏、収納庫などしか残っていない。火災などで焼けてしまったまま再建されることがなかった。

 創建は1188年というから鎌倉幕府が開かれる前だ。源頼朝の家臣だった足利義兼が、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて極楽寺として建てたのがはじまりだった。このときはまだ密教系(真言宗)の寺院だった。
 禅宗に鞍替えして名前を浄妙寺としたのは、建長寺の開山だった蘭溪道隆の弟子の月峯了然が住職となったときで、1258年頃だったとされている。
 1756年に足利尊氏のお父さんの足利貞氏が再興した。貞氏は死んでここに葬られ、寺の裏手に墓が建っている。
 1386年に室町幕府の三代将軍足利義満が五山の制を定めたとき、浄妙寺は第五位とされた。この後隆盛を極めるも、室町幕府の衰退と共に寺も勢いを失っていった。日本の中心が鎌倉ではなくなっていったから無理もない話だ。
 正式名は、稲荷山浄妙廣利禅寺。本尊は釈迦如来。

浄妙寺-3

 目の前を猫がスタコラと横切っていった。あ、おい、ちょっと待って、という呼びかけにも応じることなく駆け足で去っていって、何をする気かと思ったら灰色の猫を追いかけて飛びかかっていっていた。お仲間じゃないのか。
 この猫、どうやらここの名物猫のようで、いつもは拝観料を払う入り口のカウンターで寝ているらしい。こういうのも看板猫というのだろうか。あるいは招き猫か。
 でもやっぱり猫がいる神社仏閣はいい。気持ちが和む。

浄妙寺-4

 この寺は特に紅葉名所というわけではなく、枯れ葉風情だった。
 茶室の隣は、木漏れ日と落ち葉が風情を感じさせた。

浄妙寺-5

 喜泉庵と名づけられた茶室と枯山水の庭園があって、500円払うとここにあがって抹茶をいただくことができる。
 でもありがたがるのは早い。もともとこの場所は1500年代後半に僧侶たちが喜泉という茶席を設けていたところで、現在の茶室と庭園は平成3年に造られたものだ。よくできているけど、ごく新しいものなのでこれはまた歴史のある立派な庭園ですねなどと口走ると恥ずかしい思いをするので気をつけたい。

浄妙寺-6

 左手の坂道を登っていくと、「石窯ガーデンテラス」という案内看板が立っている。お寺の中にガーデンテラスとは何事だろうと思ったら、自家製パンを出すカフェ&レストランだった。これも境内の中ということになるのだろう。
 かつて貴族院議員の洋館が建っていて、その持ち主が転々として、最終的には浄妙寺が買い取ったとかなんとか。はっきりしたことはよく知らない。とにかく今は境内の中にあるレストランのようだ。
 かなりの人気らしくて、私たちは行かなかったのだけど、週末などは入るのに1時間待ちなんてこともあるんだとか。
 金沢街道のこの先には旧華頂宮邸もあったりして、ちょっとした洋館巡りもできる。

浄妙寺-7

 奥に紅葉してるところがあったので撮ってみた。ここはきれいな赤が残っていた。鎌倉は場所によって紅葉の進み具合にかなりバラつきがある。距離はそんなに離れてないのだけど。

 鎌倉五山の寺として期待していくとこんなものかとちょっとがっかりしてしまうかもしれない。寺院としては特に見所があるわけではない。本堂も江戸時代のものだし、茶室や庭園は平成生まれの生成育ちだ。紅葉も見所になるほどではない。季節ものとしてはボタンが充実してるそうだ。あとは看板猫を見るくらいか。
 ここまで何も残ってないと、逆に流れた歳月の多さに感慨深い。円覚寺や建長寺へ行ったあとに訪れてみるとその思いもひとしおだろう。栄華盛衰というのもを思わずにいられない。時代は移り変わっていくものだ。
 次回は報国時編だ。それが今回の金沢街道巡り最後となる。


鎌倉最古の杉本寺はガイドブックで作ったイメージとは違っていた
2007年12月17日 (月) | 編集 |
杉本寺-1

PENTAX K100D+SIGMA 17-35mm f2.8-4



 鎌倉最古のお寺という杉本寺には前から興味があった。神社仏閣は古ければ古いほどありがたいもので、一番古いなんて聞くと、それだけで俄然行ってみたくなる。ガイドブックを見ると、古いお堂に苔むした石段などの写真が載っていて、いかにもという感じだ。だから、金沢街道方面へ行くと決まったとき、ここが一番楽しみなところだった。
 しかし、想像と現実は往々にして違うもので、杉本寺もちょっと拍子抜けするようなところだった。まず、車の往来の激しい金沢街道に面しているところから、あれあれとなった。こんなところだったんだと。金沢街道自体、車も人も通らないような山道をイメージしていたから、まずそこから崩れてしまったというのがある。そこへもってきてこのロケーション、私ががっかりしてしまったのも無理はない。もっと山の中の人里離れた古寺かと思っていた。
 とはいえ、ここまで来たからには寄らないはずもなく、本堂の方に期待して石段を上がっていった。入り口の石段はそんなに古くもないし苔むしてもいない。

杉本寺-2

 この仁王門(三門)は古そうだ。かなり年季が入っている。たくさんの千社札が貼られているのも、いかにもといった感じだ。茅葺屋根の仁王門というのはちょっと珍しい。この門が作られたのがいつだったのかは調べがつなかった。
 おじさん、ややカメラ目線でフレームイン。上の写真にも背中が写っている。エキストラ参加だ。

杉本寺-3

 左右の仁王像は運慶の作と伝えられている。
 仁王像というと怒りの表情を浮かべていて恐ろしげという印象があるけど、ここのは少しデフォルメしたようなコミカルさを感じた。そんなに怒ってるふうでもない。子供の頃見た丹生大師の仁王像は恐かったな。

杉本寺-4

 ああ、ここだ、ここだ。ガイドブックに出ていた苔むした石段。
 でも、時期的に少し遅かったようで、苔も冬枯れの手前だった。夏の終わりくらいならもっと青々としてきれいだったろうに。光もこのときは強すぎたかもしれない。
 現在この石段は封鎖されていて歩くことができないようになっていた。残念。ここを歩けると思っていたのに。老朽化して危ないということだろうか。人が歩かない方が苔の状態がよくなるから、景観保存のためにはいいか。

杉本寺-5

 三門をすぎてすぐ右側には鳥居が建っていて、中に大蔵弁財天がある。
 どういう歴史や由来があるのかは分からない。大蔵だけにお金に関係あるのかと思うのは間違いなようだ。杉本寺の正式名が大蔵山杉本寺だから、そこから来ているのだろう。
 鎌倉には銭洗弁財天もあるけど、あちらはお金に関係がありそうだ。
 杉本寺の紅葉はこの場所が一番きれいだった。おじさん入りの写真もあったけど、あまり登場するとしつこいので、このシーンではおじさんの出番はカットとした。

杉本寺-6

 拝観料は200円。微妙なところだ。お賽銭は、なしになる。入り口で払っておいたから、あっちでもらってくださいと。人間にばっかりお金がいって、仏さんに回っていかないような気がしないでもない。賽銭なら気持ちよく入れられるのだけど。
 観音堂は1189年に焼けたのをはじめ、何度か焼けていて、現在のものは1678年に再建されたものだそうだ。それでも江戸時代の初期だから、すっかり古びていい感じになっている。茅葺屋根は何年か前に葺き替えられたようだ。かなりお金がかかったことだろう。拝観料の200円くらいじゃ追いつかない。
 最初に観音堂が焼けたとき、本尊の十一面観音三体は燃えずに助かった。燃える観音堂から自ら逃げ出した十一面観音が杉の木の下で見つかったという話が「吾妻鏡」に出てくる。そこから杉本観音と呼ばれるようになったのだと。

 731年、関東地方を訪れていた行基(ぎょうき)が、この場所に自分で彫った十一面観音像を安置したことから杉本寺の歴史が始まった。
 734年に光明皇后の発願で、行基と藤原房前が杉本寺を創建したとされている。
 その後、851年に慈覚大師が、985年には花山法皇の命を受けた恵心僧都(えしんそうず)がそれぞれ十一面観音を杉本寺に納めている。これで十一面観音は三体となった。
 更に1193年には頼朝が運慶に造らせた十一面観音を寄進し、杉本寺は十一面観音だらけになっている。観音堂には運慶作の観音像が立っていて、奥に秘仏として三体の観音像が安置されている。同じく運慶作の地蔵菩薩もいる。
 頼朝が修理費を出したり、実朝も参詣したりと、鎌倉時代も大切にされた。
 観音堂の中に入ってブツを見ることはできるけど、撮影は禁止となっていた。こういうところの撮影禁止というのはよく分からない。フラッシュ禁止なら分かるけど、まさか写真を撮られると魂を抜かれるのを恐れるわけでもあるまいに。肖像権とかそっち関係なんだろうか。あまり撮られて写真が出回るとありがたみがさがるとか。
 歴史をさかのぼると、この地は三浦氏の一族である杉本義宗が築いた杉本城があったところで、鎌倉時代に斯波家長が南朝の北畠顕家に攻めらて落城した。寺の裏手に少し跡が残っているようだ。

杉本寺-7

 観音堂の向かって右手にも上り下りする階段があって、こちらからは視界が開けていて家並みを見下ろすことができる。帰ってきてから知ったのだけど、左側からは富士山が見えたらしい。
 このあたりがかなり山側に入っているというのがこの写真でも分かる。山間の狭いところによくもこれだけ詰め込めたもんだと感心する。ぎゅうぎゅうの押し合いへし合いをしながら、みんな思い思いの方向も向いて建っているのも面白い。それぞれの家に通じる道はどんなふうになっているんだろう。
 鎌倉に住むというと優雅なイメージがあるけど、実際に住むとなると不便そうだ。車がないと動きが取りづらいし、道は狭い。観光客はいつでも多くて邪魔くさい。スーパーやコンビニのたぐいがほとんど見あたらないけど、住人はどこで買い物してるんだろう。電気屋やホームセンターもドラッグストアもない。Book offもないし、私にとっても住みづらそうな街だ。もはや鎌倉文士の時代ではなくなった。

 聞くと見るとでは大違いの杉本寺ではあるけど、なかなか雰囲気もあって、観光客も少なくて静かないいところだった。ただ、山奥の苔むした寺を求めていくと肩すかしを食う。鎌倉最古というほど圧倒的な古さは感じない。
 今回の金沢街道行きの旅も残すところ浄妙寺と報国寺の二つとなった。その先の明王院や光触院は遠いし時間もないからやめておいた。
 その後は鎌倉駅に戻って江ノ電で長谷へ行って、文学館と長谷寺のライトアップを見て回った。順調にいけばあと4回で終わるのだけど、来週は途中で遠出も予定してるから来週中に終わるかどうか。次はクリスマスだ。
 鎌倉編はまだ折り返し地点。もう少しおつき合いください。


鎌倉はずれの瑞泉寺へ遅い紅葉を見に行ったらまだ早かった
2007年12月16日 (日) | 編集 |
瑞泉寺-1

PENTAX K100D+SIGMA 17-35mm f2.8-4



 鎌倉宮を出て左に曲がって更に奥を目指す。20分ほど歩いたところで瑞泉寺(ずいせんじ)の入り口が見つかった。やっと着いたかと思うとそうじゃない。本堂はここから更にずっと進んだ先にある。
 ここまで来るとけっこう山の方に来たという感じがする。三方を山に囲まれた鎌倉の街で、ここが北東のはずれになる。
 このあたり一帯は紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれており、昔から紅葉名所だったようだ。瑞泉寺も鎌倉の中では一番紅葉の遅い場所としても知られている。私たちが行ったのもそれを見るためだった。

 瑞泉寺は鎌倉期に創建された臨済宗円覚寺派のお寺で、山号を錦屏山という。
 1327年、鎌倉幕府の重臣だった二階堂道蘊(どううん)が、夢窓疎石を開山として創建し、瑞泉院と名づけた。
 瑞泉寺となったのは、足利尊氏の四男で初代鎌倉公方の足利基氏のときだった。その頃までに衰えていた寺の勢いを再び取り戻させて(そういうのを中興という)名前をあらためた。
 このあたりの二階堂という地名は、二階堂道蘊から来ている。
 足利基氏がこの寺に葬られてからは、関東公方家の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹(じっさつ)筆頭となった。
 鎌倉時代から五山文学(禅宗寺院で行われた漢文学)の拠点であったこともあり、近代まで文学者との関わりも深い。徳川光圀もここで『新編鎌倉志』の編さんをしたといわれている。鎌倉に縁のあった文学者の多くが訪れ、永井龍男の「秋」などの作品にも登場している。高浜虚子、久保田万太郎、大宅壮一などの碑の他、久米正雄や立原正秋の墓がある。

瑞泉寺-2

 総門の前できれいに染まったモミジが出迎えてくれた。
 このあたりはやたら電線が目立ってしまうので写真を撮るとき邪魔になる。景観もよくないし鎌倉は狭いのだから、せめて電柱を地下に埋めればいいのにと思う。工事は大変だろうけど。
 こういう細い道でも車が平気で通るのも鎌倉の特徴だ。車の運転に自信がない人は鎌倉は住まない方がいいかもしれない。
 総門をくぐればいよいよ境内かと思うとそうではない。左右に民家が建ち並んでいて驚かされる。境内なのに民家? かつては大規模だった寺が土地を切り売りしたのか、今はかなり縮小されてしまったようだ。
 それにしても門の中に普通の民家があるというのは不思議な感じがする。

瑞泉寺-3

 途中でポツンと土鈴(どれい)の店があった。みやげもの屋などが並んでいるわけではなく、ここだけが独立してある。おじいさんが趣味を兼ねてやっているような店で、たくさんの作品が並んでいた。作るのが楽しくて売るのは二の次といったところだろうか。でも、けっこういい値段していた。
 私も瀬戸で土鈴猫を作ったけど、あれは面白かった。また機会があれば挑戦してみたい。次こそ猫に似せてみせる。

瑞泉寺-4

 鎌倉で一番紅葉が遅いところというだけあって、我々が訪れた12月9日はまだ完全に色づいていなかった。他ではほとんど終わっているところが多かったのに、ここは特別遅い。山の方で気温も低いだろうに平地より遅いというのは不思議だ。
 あれから一週間経って、そろそろ見頃が過ぎた頃だろうか。
 本堂は高い位置にあって、少し長めの石段を登らなければいけない。途中で二手に分かれていてどっちから行けばいいか迷う。先で合流してるからどっちから行ってもいいのだけど、右が新しく作られた方で、左が昔からある石段だ。行き帰りで両方行ってもいい。

瑞泉寺-5

 かなりの巨木もあり、一本で見上げる空全体を覆い隠していた。
 このときの染まり具合はまだ6分、7分くらいで、青々してるやつもあった。これが真っ赤に染まったら壮観だろうけど、グラデーションもそれはそれで悪くない。

瑞泉寺-6

 石段を登り切ったところに三門がある。
 書き忘れたけど、ここでは拝観料100円を取られる。100円は良心的だけど、いよいよここからは鎌倉得意の小銭徴収攻撃が始まる。

瑞泉寺-7

 ここは鎌倉を代表する花の寺で、一年中何かしらの花が咲いている。特に有名なのが春先の梅と水仙だ。境内にはたくさんの梅の木があり、3月はさぞや華やかなのだろうと思わせた。
 その他、椿、マンサク、コブシ、藤、アジサイなどが咲き、最後は紅葉で締めくくりとなる。この時期は、センリョウ、マンリョウの赤い実も目立っていた。
 仏殿や書院、客殿、地蔵堂、開山堂などはすべて大正以降に再建されたもので、古い堂は残っていない。その点ではありがたみはもうひとつだ。

瑞泉寺-8

 どこもく地蔵と呼ばれる堂。
 昔、寺の堂守が生活の苦しさから逃げだそうとしていたとき、夢に地蔵が現れて「どこも苦、どこも苦」と言うのを聞いて思い直して地蔵を祀るようになったという話だ。
 中をのぞくと、地蔵菩薩立像が安置されていた。これは古そうな建物だったのに、意外と新しいものだったのだ。火事で焼けたのか、関東大震災で倒れたのか。

瑞泉寺-9

 これが瑞泉寺名物、岩の庭園だ。鎌倉によくある「やぐら」かと思ったら違った。
 夢窓疎石初期の作品で、徹底的に無駄をはぶいて、くりぬいた岩と池で禅の庭園を造ったとされている。造形がワイルドすぎて言われなければよさに気づかない。言われても、はぁ、そんなもんですかと言うしかない。鎌倉期唯一の庭園で、禅宗庭園の傑作とされている。
 長らく忘れられて埋もれていたものを、昭和45年(1970年)に発掘、復元したのだとか。
 夢窓疎石は京都の天龍寺の庭園が一番有名だろう。西芳寺や山梨の恵林寺などたくさん設計していて、私は岐阜県多治見の永保寺や春日井市の内々神社のものを見た。
 まあ、でも、禅の庭は難しい。正直、分からないのが当たり前だと思う。

瑞泉寺-10

 紅葉の赤に惹かれるのは共通のようで、みんなして同じ木を囲むようにして撮っているのがおかしい。その姿が私にとって被写体になる。

瑞泉寺-11

 お昼も過ぎたところでランチタイムとなる。おあつらえ向きに休憩所があったので、そこで食べることにした。残念ながら高台からの見晴らしはよくない。木々に遮られていい景色とは言えない。よく晴れた日は富士山が見えるそうだけど、このときは見えなかった。残念。
 ケーキは今回市販のものだった。ケーキ焼きはクリスマスだ。けど、市販のケーキを超えるのは難しい。料理なら自分の好みの味付けとかがあるけど、ケーキだけは正面から戦って必ず負ける。コンビニの安いケーキを超えることさえ難しい。

瑞泉寺-12

 どこからともなくサビ猫が現れて愛想を振りまいてくれた。サービスのいいやつだ。首輪もしてるし、ここのお寺の飼い猫だろうか。ここなら行動も自由で縛られないし、車もこないから半ノラのような状態で気ままに生きるには最高の環境だろう。
 よく慣れていて触ってもおとなしくしていた。首輪にプレートが付いていたから名前が書いてあるのかと見てみたら、ノミ取り首輪の日付を書くプレートだった。
 猫が食べられるようなものは持っていかなかったので、こいつらは何もくれないやチェっとか思ったようで離れていった。遠出するときもカリカリは必帯だろうか。

 岐れ路の北側の道はここが終点となるから引き返すことになる。歩き目的なら天園ハイキングコースを行ってもいいのだけど、山歩きを避けるならいったん戻ることになる。ここから真っ直ぐ南に降りられると楽なのに、鎌倉宮の手前まで戻らないといけない。それがこのコースで少しやっかいなところだ。
 次回は金沢街道に出て、杉本寺などを回ることになる。それはまた別の話。今日はここまで。続きはまた明日。


歴史の跡地に立つ神社と夢のあとの野原 〜金沢街道を行く
2007年12月15日 (土) | 編集 |
鎌倉宮-1

PENTAX K100D+SIGMA 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm Di



 鶴岡八幡宮を出たあと、住宅街をテクテク歩いて最初にたどり着いたのが鎌倉宮(かまくらぐう)だった。こちらは金沢街道から外れた北側のルートにある神社で、お宮通りと呼ばれている道の先にある。金沢街道は「岐れ路」を下(南)へ進んだ方の道だ。
 一つ失敗したのは、鎌倉宮の手前左側にあった荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)に寄らなかったことだ。大した神社じゃないだろうと飛ばしたのだけど、帰ってきてから調べたら、九州の大宰府天満宮、京都の北野天満宮とともに日本三大天神とされているところというではないか。しまったにもほどがある。そんな大事なところをスルーしてしまったとは痛恨のミスだった。また行く機会があるといいんだけど。
 なにはともあれ、金沢街道方面巡りはここ鎌倉宮がスタート地点となった。
 入り口では紅白の鳥居が出迎えてくれる。ちょっと珍しいカラーリングだ。源氏の赤と平家の白というそれぞれのシンボルカラーを組み合わせることで仲良くいこうというメッセージだろうか。単におめでたい色だからか。
 入り口付近から人も多く、車の出入りなどもあって雑然とした雰囲気にちょっとたじろぐ。一般的な観光コースからははずれたところだから、もっと深閑としたところをイメージしていた。朝市の旗も立っている。
 ここを訪れたのは、この神社の由来や歴史に興味を持ったからというのではなく、紅葉が目当てだった。予習はまったくしてなかったので、行ったときはここがどういう神社なのかはまったく知らない状態だった。だから荏柄天神社も逃してしまうのだ。

鎌倉宮-2

 入り口は狭かったものの、境内はわりと広く、奥行きもある。左側では朝市なのか骨董市なのか、価値があるのかないのかまったく分からないようなブツがたくさん並んでいた。お宝が埋もれていたとしても、私には判断できない。
 右手は駐車スペースになっている。狭い鎌倉だからしょうがないのだけど、神社仏閣の境内に車がたくさん入っていると景観を損ねる。人が入った写真は好きだけど、神社に車の入った写真は好きじゃない。

鎌倉宮-3

 二の鳥居も白と赤だ。昔からこの色だったのか、最近塗り直したのか、どちらだろう。
 建物の規模としては決して大きくない。どちらかといえばこぢんまりしてるといった方がいい。

鎌倉宮-4

 拝殿の前には大きな獅子の顔がでんと置かれている。なんだこりゃと思う。こんなのは初めて見た。
 帰ってきてから調べたところ、ここの祭神である護良親王(もりながしんのう)が戦のとき兜の中に獅子頭の小さなお守りを入れていたところから来ているんだとか。獅子頭守というらしい。由来も分からず頭をなでておいたけど、それは失礼だったのかもしれない。たむけんはぜひここにお参りに来るべきだ。

 1308年、後醍醐天皇の皇子として生まれた護良親王は、6歳のときに京都の三千院に預けられ、11歳で延暦寺に入って、大塔宮(おおとうのみや)と称されるようになる。現在鎌倉宮が別名大塔宮と呼ばれているのはここから来ている。一般的には「おおとうのみや」、地元の人は「だいとうのみや」というそうだ。バス停も大塔宮となっている。
 20歳で早くも天台座主(てんだいざす)となるも、23歳のとき父親の後醍醐天皇が北条氏の鎌倉幕府倒幕に立ち上がり、還俗して参戦することになる。子供の頃からずっと僧侶として育った天皇の息子が、20歳をすぎてからいきなり戦に参加して戦うというのだから驚く。我々が現在抱いている皇室のイメージとはずいぶんかけ離れている。
 その後2年間にわたり、赤松則祐や村上義光たちと十津川、吉野、高野山などを転々として戦った。足利尊氏は京都の六波羅探題を滅ぼし、一方では新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府はついに滅亡することとなる。
 倒幕計画が発覚してすぐに捕まって隠岐(おき)に配流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、護良親王は兵部卿・征夷大将軍に、足利尊氏は鎮守府将軍に任命される。
 しかし、この人事に納得がいなかったのは足利尊氏で、自分こそが征夷大将軍だと言い張ってややこしいことになる。こののち二人は対立し、先制攻撃を仕掛けた護良親王が逆に尊氏の策略によって捕まってしまい、鎌倉の東光寺(とうこうじ)に幽閉の身となってしまう。その際、寺の裏の土牢(つちろう)に9ヶ月間入れられていたという伝説があり、今でもその跡地が残っている。神社は拝観料はいらないけど、そこに入るには300円が必要になる。私はいったときは知らなかったけど、知っていてもたぶん入ることはなかっただろう。
 護良親王幽閉後も争いは続き、1335年7月、残党を集めて鎌倉に攻め入った北条時行の軍に、尊氏の弟である足利直義が破れることとなる。このとき、時行に親王を奪還されることを恐れた直義は、家臣の淵辺義博に護良親王暗殺を命じる。暗くて狭い中に9ヶ月も閉じこめられていた護良はまともに戦うこともできず、28歳で波乱の人生を終えることとなる。
 時は流れて明治2年。護良親王の霊を慰めるため、明治天皇が自ら東光寺跡に神社を造ることを思い立ち、名前を鎌倉宮と名づけた。鎌倉の中ではずいぶん新しい神社だったのだ。明治6年には明治天皇もこの地を訪れている。

鎌倉宮-5

 社務所前にある「もみじの天井」は、なかなかのものだった。ここは色づきが遅いところで、このときもまだ完全には染まりきってない部分もあった。
 これだけを見に行くほどのものではないけど、この時期に金沢街道へ行くなら寄っていって損はない。

鎌倉宮-6

 出口付近にあるもみじの木で、鳥の鳴き声がして、人が上を見上げて何かを撮っていた。紅葉でも撮っているのかなと思ったら、ビクセンのケースを持っていた。あ、鳥の人だ。
 あわてて上を見上げると何かがチョロチョロ動いている。あ、メジロ。紅葉にメジロとはチャンス到来。この組み合わせは撮ったことがない。慌てて望遠レンズに交換したものの、なかなかいいポジションに止まってくれない。枝や葉が重なり合ってオートフォーカスも迷いっぱなしだ。
 なんとか粘ったものの、これで精一杯だった。葉っぱの影に下半身しか写ってない。でも紅葉写真としてはきれいだから、これはこれでよしとしよう。

鎌倉宮-7

 葉っぱの少ないところに移動したところでどうにか撮れたのがこの一枚だ。これでもいい鳥写真とはいえない。少なくとも目はしっかり捉えないと。メジロといえどもちょこまかするから、なかなか手強い。
 TAMRONの70-300mm Diはけっこう優秀だ。期待以上に写りがよくて驚いた。デジタルコーティングが効いているのか。これくらい写れば必要充分だろう。ミニバズーカのTakumar 300mmを持ち出せないような旅行のときはこいつを持っていこう。コンパクトで軽いから助かる。

鎌倉宮-8

 鎌倉宮を出てすぐのところが一番よく染まっていた。
 このあと我々は、瑞泉寺へ向かうことになる。お宮通りの突き当たりにそれはある。

鎌倉宮-9

 向かう途中、テニスコートの横に永福寺跡(ようふくじあと)の石碑が建っていた。永福寺といえば、かつて大きな寺だったというのをどこかでちらっと見た記憶がある。念のため撮っておいた方がいいかなと思って撮っておいて正解だった。ここは頼朝の鎌倉幕府にとって重要な場所の一つだったのだ。それも帰ってきてから知ったことだった。
 源頼朝が建てた寺院といえば、なんといっても鶴岡八幡宮が有名だ。けど、それ以外に頼朝ゆかりの寺社は思いつかない。頼朝はあれしか建てなかったかといえばそうではなく、今はもうなくなってしまった二つの大きな寺院を建立している。一つが勝長寿院で、もう一つがここにあった永福寺だった。
 奥州平泉を制圧したとき目にした中尊寺の豪華絢爛さに衝撃を受けた頼朝は、鎌倉の地にあれを超える寺院を建てたいと考える。奥州攻めで命を落とした源義経や藤原泰衡ら武将の鎮魂をするという名目で、中尊寺大長寿院二階大堂や毛越寺などを模した壮大な寺院を建築したのだった。
 二階堂、阿弥陀堂、薬師堂の三堂を中心とした壮大な伽藍が建ち並び、その前には南北200メートルの池と、京都から庭師を呼んで造らせた広大な庭園を持っていたという。研究者によって再現されたCGを見たけど、これはもう素晴らしく立派なものだ。もし今も残っていたら、鎌倉観光の中心となっていたに違いない。
 鎌倉期に何度か燃えてその都度再建され、室町期には足利氏に保護されたものの、1405年に火事で焼け落ちたあとはついに再建されることがなかった。江戸時代のはじめには廃寺となってしまったそうだ。
 昭和に入って発掘調査が行われたそうだけど、現在は草ぼうぼうの空き地となり果てている。枯れすすき、兵どもが夢のあとといった風情だ。かつての面影は一切残っていない。完全復元は資金的に不可能だろう。

鎌倉宮-10

 落ち葉に埋め尽くされた水路。このあたりは日が当たらず空気がひんやりしている。ここから先は少し山の方に入っていく。といっても、まだ観光コースから外れているわけではないから、人通りはそれなりにあって絶えることはない。思っていた以上にこちらも人気のコースのようだ。鎌倉観光中級者向けといったところだろうか。
 この先は瑞泉寺だ。そのときの話はまたあらためてということで。
 つづく。




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