現身日和【うつせみびより】
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紫式部も清少納言も訪れた長谷寺はカッコイイ寺だと思う 〜長谷寺3回
2008年08月19日 (火) | 編集 |
長谷寺1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 一般的に長谷寺(はせでら)といえば、鎌倉の方を思い浮かべる人が多いかもしれない。関西で長谷寺といえば、奈良桜井にある長谷寺のことだと思うだろう。関東なら長谷寺といえばアジサイだし、関西では長谷寺と聞けばボタンを連想するんじゃないだろうか。
 どちらが本家かといえば、それはもう文句なしに奈良の長谷寺の方だ。こちらが真言宗豊山派(ぶざんは)の総本山になっている。ただし、二つの寺の関わりは深く、開基は両方とも徳道上人ということになっている。そこにはこんな伝説がある。
 721年(727年とも)に徳道はクスノキの大木から二体の十一面観音を彫り上げ、一体を奈良長谷寺(他と区別するために大和国長谷寺とされることもある)の本尊とし、もう一体を海に流したのだという。それから15年後、その仏像が三浦半島に流れ着いたので、徳道を呼んで鎌倉に建てた寺が鎌倉の長谷寺なのだとか。
 けどちょっと待て、二体の十一面観音像は、高さ10メートル以上もある日本一大きな木造の仏像だ。そんなものが15年間も海をぷかぷか漂ってるわけがない。とっくに漁師か誰かが見つけてる。一体、誰がこんな伝説を考えたんだ。
 実際のところ、奈良の長谷寺も鎌倉の長谷寺も、いつ誰がどういう経緯で建てたのかよく分かっていないというのが本当のところらしい。どちらも奈良時代ではないかと言われている。
 奈良の場合は、686年に道明が天武天皇の病気平癒を祈願して西の岡に三重の塔を建立して銅板法華説相図を安置し、727年に徳道が聖武天皇の勅願によって東の岡に十一面観世音菩薩を祀ったことで寺の体裁が整ったというのが寺伝となっている。
 鎌倉の方は、736年に藤原房前(父は藤原不比等、おじいさんは藤原鎌足)が徳道を招いて建てたということになっているようだ。そのこともあって、当時は新長谷寺と呼ばれていたという。

 長谷寺の長谷は、地名の初瀬(はせ)から来ているのだろうか。古くは泊瀬(はつせ)と表記されたともいう。
 この地は飛鳥時代より以前のヤマト王権の中心地に近いところで、雄略天皇が初瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)を置いた都でもあった。ただ、都の跡地は見つかっておらず、はっきりここだと分かっているわけではないようだ。
 平安時代中期、貴族の間で観音信仰というのが爆発的なブームとなる。長谷寺への参拝も流行し、それは長谷詣でと言われた。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌で有名な藤原道長をはじめ、そうそうたる顔ぶれがこの寺に参拝に訪れている。『更級日記』の菅原孝標女や『蜻蛉日記』の藤原道綱母、『源氏物語』の紫式部や『枕草子』の清少納言など、女性も多く訪れた。
 京の都から長谷寺までは70キロ近い。歩いて片道3日か4日かかったという。一日20キロ歩く計算だ。道のりは平坦ではなく、山も越えないといけない。宮廷暮らしの貴族たちがそこまでして参拝したいと思ったのは、それはもう流行としか言いようがないんじゃないか。みんなが行くから自分も行かないと話に乗り遅れるという一心で苦労して行ったのだろう。純粋な信仰心とは違う気がする。
『蜻蛉日記』や『枕草子』にはそのときの様子が書かれている。みんな死にそうな思いをしていたようだ。それを思えば私の歩きなどたいしたことはない。

 長谷寺もいろいろと紆余曲折を経ている。一時は東大寺(華厳宗)の末寺となったり、興福寺(法相宗)の末寺となったり、新義真言宗に宗旨替えしたりした。戦国時代になって、秀吉によって根来山を追われた新義真言宗門徒がたくさん入山し、僧正専誉によって真言宗豊山派が確立された。
 今では全国に末寺三千、信徒数は三百万人といわれる大宗派となっている。大本山は東京の護国寺で、大正大学なども持っている。
 今回も充分すぎるほど前置きが長くなったところで、ぼちぼち境内に入っていくことにしよう。

長谷寺1-2

 長谷寺の入り口まで辿り着いてやれやれと安心するのはまだ早い。ここからはひたすら登りの階段が続くことになる。本堂は初瀬山の中腹に位置していて、見晴らしがいいことでも有名だ。ということは、そこまで登っていかなくてはいけないことを意味している。紫式部や清少納言がふうふう言いながら歩いて登っていった姿を想像すると、ちょっとおかしい。どんな旅装束や化粧だったのだろう。ここまでやって来た頃には、もうヨレヨレになっていたんじゃないか。それとも宮廷の人間としてどんなときもシャンとしていたんだろうか。
 奥に見えているのが仁王門で、その手前に料金所がある。入山料は500円。
 寺社で参拝者から拝観料を取るようになったのは、日本の歴史上いつからなんだろう。奈良時代あたりからこういうシステムだったのか、それとも江戸時代か、もっとあとなのか。
 長谷寺ではそんなに悪い印象は持たなかったけど、人気のある寺社ほど拝観料を徴収するのは当たり前という態度のところが多い。ありがとうございますという感謝の気持ちも見られなかったりする。頭の一つくらい下げてもバチは当たるまい。

長谷寺1-3

 なかなか立派な仁王門(楼門)だ。迫力がある。
 一番始めは平安時代に建てられたそうで、それから何度も焼けてはそのたびに再建するというのを繰り返し、現在のものは明治18年(1885年)に再建されたものだという。
 それでも、重要文化財に指定されている。

長谷寺1-4

 両脇には仁王像が構えている。仁王門が燃えたということは昔の仁王像も一緒に燃えたのだろう。これはいつの時代のものだろうか。
 楼上には十六羅漢像が安置されているそうだ。
 わらじを奉納する習慣があるのか、たくさんかかっていた。そういえば、昔の人はこんな草履を履いて歩いてきたのだ。その大変さも加味しないといけない。タイムマシンに乗って平安時代へ行くときは、ウォーキングシューズをおみやげに持っていってあげよう。信長ならドクター中松のジャンピングシューズも気に入ってくれるかもしれない。嬉しそうに跳ねている信長を見てみた。

長谷寺1-6

 このあたりの彫り物も細かい。
 ほうほうと感心しつつ、先を急ぐ。長谷寺は思っていた以上に手強そうだ。登りが続くし、境内も広い。見学時間は30分しかなかった。

長谷寺1-5

 これが長谷寺名物「登廊(のぼりろう)」だ。屋根付き階段が399段。長さ108間は、煩悩の数になぞらえている。
 二回折れ曲がっていて、それぞれ下登廊、中登廊、上中登廊と呼ばれている。これも重要文化財に指定されている。
 最初のものは、1039年、春日大社社司の中臣信清が子供の病気が治ったことを感謝して寄進したものだそうだ。
 下登廊と中登廊は古くなったので、1889年(明治22年)に再建されている。
 上から吊り下げられているのは、長谷型燈籠と呼ばれるもので、これも独特の姿をしていて印象に残る。
 長谷寺のもう一つの名物であるボタン(牡丹)はこの登廊の両脇に植えられている。唐の皇妃の馬頭夫人(めずぶにん)が、遠く長谷寺に向かって馬顔が治りますようにとお願いしたところ、一夜にして美人になったというので、そのお礼としてボタンを送ってきたのがボタン園の始まりという伝説があるらしい。そんな無茶な。馬頭夫人の献木という話は本当にしても、一晩寝て馬面が治ったら苦労はしない。元巨人の駒田に実験してもらおう。そういえば、駒田は奈良の桜井商業卒業だから、この近所ではないか。奈良っ子は遠足とかで長谷寺や室生寺へ連れて行かれるというから、駒田もここに来ている可能性が高い。この故事を知らなかったのか。
 4月の下旬から5月の上旬にかけて、150種類7,000株のボタンが咲き誇り、大挙して人が押し寄せるそうだ。同じ時期に室生寺のシャクナゲも咲くから、セットで回る人も多いのだろう。
 桜もきれいなようで、写真で見ると初瀬山の桜風景は、ミニ吉野山という風情だ。

長谷寺1-7

 うちの田舎の丹生大師にも、こういう屋根付きの階段がある。もちろん規模は全然違って小さいものだ。
 屋根付き階段は全国的に見て数が少ない。どういう意図で建てられたもので、何故一般的なスタイルとして定着しなかったのか、そのあたりの事情はよく知らない。かなりいいものだから、他のところももっと真似してよさそうなのに。

長谷寺1-8

 登廊の途中やその他のところにもちょくちょくいろいろな建物があって、説明板が立っていたりもした。いちいちは寄っていられないので、写真だけ撮っておく。パンフレットを見ても、ひとつひとつに名前が出ているわけではない。普段は門を閉めているところもあるようだ。

長谷寺1-9

 これは確か、開山堂だったと思う。徳道上人関係の建物だろう。

長谷寺1-10

 気がついたら登廊を外れて、左手から登ってしまったようだ。ちょっと失敗。結局、帰りも上と中の登廊を回ったから、これがタイムロスにつながった。
 下登廊を右に折れて中、上と進み、本堂と右手の建物を見て、帰りは本堂の左から五重塔方面を回って戻るというのが一般的なコース取りだろう。それが無駄がない。
 ここまで来れば本堂はもう目の前だ。汗だくでフラフラにはなっていたのが元気になった。

長谷寺1-11

 本堂の中にある本尊十一面観音は撮影禁止になっているから、横から本堂の中を撮る。
 とにかく本堂はカッコイイ、十一面観音はすごいで、圧倒された。こりゃまいりましたと言うしかない説得力がある。写真ではお伝えできないのが残念だ。私はやられてしまった。
 写真といえば、長谷寺に関する予習が不充分で、どこからどう撮るのがいいのかが分かっていなかった。定番スポットとして、本堂前の舞台から五重塔や周囲を見渡す風景というのがあったのに、それにまったく気づかなかった。本堂が清水寺のような舞台造りになっていることさえ知っていれば、そのあたりの写真も撮ったのに、失敗した。
 できることなら、桜の季節にもう一度撮りに行きたいところだ。実現するだろうか。

長谷寺1-12

 こちらが本堂右手の上登廊。
 額に描かれているのは鳩の絵だろうか。長谷寺と鳩は関係あったかどうか。

 長谷寺本編の第一回はここまでとしよう。次回の後編は本堂の全景から再開して、五重塔などの紹介をしたい。
 なんだかんだで長谷寺シリーズも残り一回となった。続く室生寺も前後編の二回でおさまりそうだし、赤目行きの終わりが見えてきた。
 そろそろ次の遠出の時期が近づいてきたようだ。当日の時間割は完成しつつある。またかなり無茶な計画となっていて、自分でも恐ろしいような楽しみのようなだ。


平安貴族も江戸時代のお伊勢参りの人たちも歩いた門前町 〜長谷寺2回
2008年08月18日 (月) | 編集 |
長谷寺門前2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今日は長谷寺門前町の続きを書こう。昨日は雑談が長すぎて、長谷寺の前までも辿り着けなかった。今日は門の前までは行きたい。
 この通りが門前町として発達したのは、関西方面の人たちがお伊勢参りに行くときに歩く道だったからだ。旧の伊勢本街道で、その行き帰りに長谷寺も寄っていったのだろう。だから宿場町の一面も持ち合わせていて、現在も数軒の宿屋が営業を続けている。江戸時代の街道沿いの名残が色濃い。
 上の写真ではお遍路さんが写っている。長谷寺は、西国三十三観音霊場の第八番札所で、お遍路の人も多い。
 この西国三十三箇所は、長谷寺の開基である徳道上人が作ったものとされているから、特に長谷寺は重要な札所になっている。
 岐阜に一つ、残りは近畿2府4県にある。33と数は少ないものの、広い場所に散らばっているから、徒歩で回るのは苦しそうだ。全部回ると、現世で犯した罪がすべて打ち消されるとされている。あまり若い内に行ってしまうと、その後また悪いことをしてしまいそうだから、体が元気でそのあと悪いことをしない予定のタイミングを見計らっていくのが良いだろう。
 奈良の興福寺や京都の清水寺も入っている。姫路の円教寺も行ったから、私はこれで4つだ。まだ先は長い。

長谷寺門前2-2

 これは食事処か、ギャラリーのようなものか。陣屋の跡とかそういうところだったかもしれない。
 ちょっと古いネットの情報では、抹茶と食事処として紹介されているけど、看板が少し違ってる。店の内容が変わったんだろうか。もしくは、看板が変わっただけかもしれない。
 時間がないから寄り道はできない。長谷寺の見物時間さえ余裕がないのに、こんなところを見て回ってる場合じゃない。

長谷寺門前2-3

 ここも古そうな造り酒屋だ。販売だけで醸造は別かもしれない。
 大きく看板にも出ているように、紫源氏というのがここの主力商品のようだ。有名なんだろうか。
 アルコールはビールさえ飲まない私だから、日本酒についてはまったく知らない。飲んだことさえほとんどない。料理に日本酒や白ワインを使うくらいのものだ。

長谷寺門前2-4

 これは旅館ぽい感じか。井谷屋というところだろうか。だとすれば、老舗の旅館のようだ。
 でも、写真を見ると違う。湯元井谷屋はもっと建物が新しい。こちらは旧館で、新館に移ったということも考えられるか。

長谷寺門前2-5

 古い日本家屋は笑いのポイントではないのだけど、つい吹きだしてしまうものがある。それは、こういう傾きというか、波打ちというか、ゆらいでるラインを見たときだ。傾いてるねぇ、ゆらいでるねぇと、思うとなんだか嬉しくなって笑えてくるのだ。
 歳月を経て獲得したバランス感覚がいい。妥協点を見いだしたバランスと言うか。
 うちの田舎もそうだけど、傾いていてもけっこう大丈夫なものだ。扉とかが閉まりにくくなったり、隙間が空いたりするくらいで、突然ひしゃげたりすることはない。
 そのあたりもひっくるめて、古い日本家屋には味がある。これも侘びさびの世界に通じる。

長谷寺門前2-6

 貸家って、この家屋だろうか。まさか違うよな。この横の路地を入っていったところにアパートか何かあるのだろうか。
 この家は人も住んでいそうだし、手入れも行き届いてるから、やっぱり貸家じゃなさそうだ。

長谷寺門前2-7

 関西圏だから、当然名古屋とは新聞の顔ぶれが違う。奈良新聞や大阪新聞というのもあるんだ。知らなかった。
 名古屋ではほとんどの家庭が中日新聞だ。名古屋新聞や愛知新聞といったものはない。名古屋人同士で、今日の新聞見た? うん、見た、といった会話が交わされるとき、それは説明抜きに中日新聞のことを指す。朝日でも毎日でもない。朝日や毎日のことを話題にしようと思ったら、今日の朝日新聞の一面のあれだけどという言い方をしないと通じない。そんなことを言っても、たいていの人は中日しかとってないから、そんなもん知らんと言われるのがオチだけど。

長谷寺門前2-8

 途中にあったちょっとよさげな赤い鳥居に惹かれつつ、ここにも寄らず。
 輿喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)という天神さんのようだ。

長谷寺門前2-9

 なんか見たことがあるような懐かしい風景だなと思って、よくよく考えてみたら、うちの田舎の門前通りにちょっと似ているんだ。この道を行くと丹生大師に行き着きそうな気さえする。

長谷寺門前2-10

 門の前あたりがやはり一番門前町の参道といった雰囲気になっている。
 ここを歩いていると、あちこちの店から「ようこそお参り〜」、「ようこそお参り〜」と声をかけられる。book offか、というツッコミは抜きにして、これはなかなかくすぐったいながらも心地のいいものだ。みやげ物屋からうるさくいらっしゃいませとか、寄っていってくださいとか言われると押売みたいで目を合わせないようにしようとか思ったりするけど、ようこそお参りと言われるといえいえどういたしましてと会釈を返したくなる。
 名物は草餅らしく、あちこちで売られていた。
 せっかく声をかけてもらったのだけど、私は先を急がなくてはいけない。1時間で戻って電車に乗らないと、室生寺行きの最終バスに間に合わないのだった。
 このすぐ右手が長谷寺入り口になる。長谷寺紹介は、また次回だ。長谷寺本編も2回くらいになるんじゃないかと思う。今日はここまでとしよう。


長谷寺へたどり着くまでの長い雑談と門前町の写真前編 〜長谷寺1回
2008年08月17日 (日) | 編集 |
長谷寺門前1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 円頓寺・四間道シリーズが終わって、同じ日にセットで回った大須商店街にするか、赤目のあとに行った長谷寺・室生寺シリーズを始めるか、迷って長谷寺にした。円頓寺は商店街の七夕まつりがあったから優先したけど、こちらの方が先だった。気持ちの中の旬が過ぎてしまわないうちに長谷寺と室生寺のことを書いてしまうことにする。また長くなりそうだ。
 近鉄大阪線の長谷寺駅を降りたら、長谷寺までは歩いて行くしかない。バスなどはなく、徒歩15分か20分くらいと、やや距離がある。
 その間は門前町になっていて、古い家並みなども残っているので、見学しながらゆっくり行けばいいだろう。私の場合、長谷寺に割り当てられた時間は1時間しかなかったから、大あわての参拝になった。帰りは早足で10分で帰ってきたけど、往復の歩きだけで25分、寺を見て回る時間は30分ちょっとしかなかったのだ。赤目滝で充分すぎるほどのダメージを追ったあとだけに、長谷寺はきつかった。この日一番時間に追われた1時間でもあった。

長谷寺門前1-2

 突然だけど、近鉄電車というのはもしかすると聖なる線かもしれない。
 結ぶ路線図を見ると、大阪、京都、奈良、伊勢、名古屋と、関西地区の歴史上の重要拠点だったところをことごとく通っていることに気づく。伊勢神宮の五十鈴川、京の都の京都、難波宮(なにわのみや)の難波、平城宮の奈良、さらには飛鳥や吉野にまで伸びている。名古屋の熱田神宮を通ってないのがちょっと残念なところではあるけど。
 今日から紹介する長谷寺、室生寺へ行くときも近鉄だけが頼りとなる。近鉄の路線を決定するとき、歴史的な視点というのがあったのかどうかは分からないけど、何かの力が働いたような気がしないでもない。JRが通ってないところというだけではない、使命感みたいなものを感じる。
 脱線ついでにもう少し雑談をしたい。東照宮のとき書いた「太陽の道」について。
 長谷寺や室生寺は、なんでこんなところにあるんだろうというのが最初の素朴な疑問だった。奈良の平城宮からは南東に20キロも30キロも離れているし、西南の飛鳥からも20キロ以上の距離がある。普通の寺なら日本全国どこにでもあるから都から離れていても不思議でもなんでもないのだけど、ここは歴史的にも重要な寺だ。国宝建築も多い。あえてこの場所にしなければいけなかった必然性がよく分からなかった。
 そんなとき偶然知ったのが、太陽の道の存在だった。北緯34度32分のライン上には、太陽信仰と関係が深い神社仏閣や遺跡が点在しているというのだ。
 北緯34度32分というのは、春分、秋分の日の日の出、日没ラインと重なる。この日は昼と夜の長さが同じで、西からのぼった太陽が東に沈む線上に太陽信仰のための祈祷所を建てたのは、偶然などではないだろう。
 昔の人たちの暇さ加減を侮っちゃいけない。テレビもない、読む本だってそんなにない、スポーツだってそんなにないし、仕事だって忙しくはない。やることといえば太陽と共に起きだして、太陽や星を眺めて夜になったら寝るしかない。もちろん、みんながみんなそうだったわけではないけど、太陽や星の動きを観察して季節の移り変わりを知ることを専門とする人たちがいたに違いない。暦が確立していなかった時代なら尚更、季節の正確な移り変わりを太陽や星の動きで知る必要があった。それは国家的な重大事だ。
 何年も観察を続けていれば、当然春と秋の彼岸にも気づいただろうし、月の満ち欠けの正確さも分かる。そこから太陰暦が生まれたのも自然な流れだった。
 太陽信仰というのは、世界中にあるようでいて意外と少ないと言われている。太陽を女神に見立てるのは日本くらいだという。太陽の化身は天照大神(アマテラスオオミカミ)で、アマテラスは卑弥呼のことだという説がある。これは賛同する人と反論する人がいて、話がややこしくなるから詳しくは書かないけど、アマテラスは卑弥呼を神格化したものだとすると、いろいろなことがすっきり説明できる。
 卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓もこの線上にあり、東は伊勢神宮から(その東には神島もある)、伊勢斎宮、室生寺、長谷寺、三輪山、箸墓、伊勢久留麻神社、石上神宮などが並んでいる。ついでにいうと、うちの田舎の丹生大師も線上だ。これらの寺社はどこも、太陽信仰の名残の儀式が残っているという。
 ただのこじつけといえばそうなのかもしれないけど、星の動きを読むというのは当時最先端の科学であって、そのとき生きていた人たちが本気で太陽を信仰していたであろうことを思えば、自分たちが発見した彼岸の線上に太陽を拝むための場所を建てようと考えたのは必然以外の何ものでもない。現代の私たちがDr.コパの風水の本を読んで黄色い財布を買うのとは訳が違う。もっと時代が進んで風水という思想が入ってきたときは、それを本気で取り入れて都を作った。それは迷信などではなく、その時代の科学に基づいているわけだから、現代の科学で判断して間違っているとかいう問題ではない。平安時代は陰陽道が国の機関の一つとして存在した。
 長谷寺や室生寺の起源についても、よく分かっていないというのが実際のところのようだ。寺伝によると奈良時代の686年ということになっているけど、もっと古い可能性がある。長谷寺のあたりは古くは隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)と呼ばれ、三輪山あたりは冥界への入り口があると言われた場所だ。三輪山は縄文時代から信仰の対象となっていたとも言われている。
 当時、太陽の道についての認識があったとすれば、伊勢神宮やその他の寺社ががどういう経緯と意図を持って建てられたかという知識もあっただろうし、それを踏まえて長谷寺なども建てられた可能性が高い。そういうことなら、この場所というのも納得がいく。
 邪馬台国論争は終わりそうにないけど、とりあえず箸墓古墳を発掘すれば重要な手がかりが出てくることだろう。宮内庁が管理していて、古墳に関してはほとんど学術調査も許されない現状ではそれも無理か。
 北九州にあった邪馬台国が、大和の別の民族に勝って、大和に移ってきて大和朝廷(ヤマト王権)を築いたという説が一番理にかなっていると思うけどどうなんだろう。それで卑弥呼が死んで、箸墓に埋葬されてアマテラスの神話が生み出されて、天皇家につながっているのだとすれば、それもまた筋が通る。この時代のことだから、事実はそんなに複雑怪奇ではなかったはずだ。分かってしまえば、非情に単純な話だったんじゃないだろうか。
 この世で一番タイムマシンを欲しがっているのは考古学者や歴史学者だろう。自分が最初に失われた歴史の発見者となって真実を知って、大威張りしたいと思っているに違いない。でも、彼らから生き甲斐を奪ってしまうのもまたタイムマシンだ。ああでもないこうでもない、おまえの説は間違ってる自分の考えが正しいんだと言い合っている現状が幸せなのかもしれない。
 私は卑弥呼が誰であっても、邪馬台国がどこにあったとしても、特に困ることはない。こういう話が面白くて好きなだけだ。
 長い雑談はこれにて終了。今日中に長谷寺まではたどり着けそうにない。門前町の途中で終わりになりそうだ。

長谷寺門前1-3

 駅から長谷寺への道は、最初案内らしい案内も出ていないので、ちょっと不安だった。駅の正面の階段を下りると、古い家並みが続いている。
 昔ながらのたばこ屋さんもあったりするけど、タスポなんて面倒なものの存在で、こういう個人のたばこ屋さんもだんだん姿を消していくことになるのだろう。

長谷寺門前1-4

 長谷寺駅は、やはり名前からしても長谷寺へ行く人が乗り降りする駅ということになるのだろう。開けた街中ではなく、どちらかというと山間の集落というのに近い。住宅地という感じでもない。
 この先に進むと長谷寺の門前町が始まる。そことの境界線はどうなっているのだろう。近鉄が走っているとはいえ、奈良や大阪へ通うにはちょっと遠いか。長谷寺駅は急行も止まらない。

長谷寺門前1-5

 このあたりの家もなかなか古そうだ。
 下りの階段を下りたら左に曲がって、坂道を下っていくと初瀬の交差点に出る。そこまで行けば、もう門前町の風情になってくるから分かる。初瀬川に架かる橋を渡って右へ曲がると、本格的に門前町が始まる。

長谷寺門前1-6

 初瀬川沿いの家並みも、雰囲気があっていい感じだった。時間があったら、このあたりの曲がりくねった路地散策をしたかったところだけど、何しろ時間がなかった。駅から長谷寺へも、急げば10分くらいで行くだろうと甘く見ていたら、思いがけず遠かった。特に行きは写真を撮りながらだったこともあって時間を食った。
 駅から長谷寺参拝の往復1時間はかなり厳しい。最低でも1時間半は欲しい。

長谷寺門前1-7

 景観保存にも力を入れているようで、こういう昔の家がたくさん残されていた。こんな古い家並みがあるとはまったく知らなかったから、思いがけない収穫と喜んだ。
 長谷寺は平安時代からの人気参拝スポットだったから、門前町の歴史も古い。長谷寺といえばボタンの寺として有名だけど、この門前町はもっと宣伝材料にしてもいい。この町並だけでも見に行く価値がある。

長谷寺門前1-8

 古そうなお米屋さんもあった。
 のれんには三輪そうめんとある。そうか、三輪そうめんって、ここのことだったのかと、初めて知る。名前だけは知っていたけど、どこのものかなんて考えたことがなかった。
 三輪地方がそうめん発祥の地という説があるそうだ。大物主命(オオモノヌシノミコト)の子孫である朝臣狭井久佐の次男穀主が初めて作ったのだとか。
 そうめんとひやむぎの違いを知っているだろうか。細さの違いが一つと、手延べそうめんという言葉があるように、手で伸ばして細くするのがそうめんで、こねて延ばしたものを切ったのがひやむぎとなる。私は断然、そうめん派だ。
 ここが発祥の地と知ってたら、三輪そうめんをおみやげに買っていったのに。

長谷寺門前1-9

 途中で小さな神社っぽいものがいくつかあったけど、外から写真を撮っただけで挨拶の代わりとさせてもらった。

長谷寺門前1-10

 古いままの建物と、改装して新しくなったものとが混在している。町並保存地区にまではなっていないようだ。
 それにしてもこの道は車通りが多い。歩道もないし、車が来ると立ち止まってやり過ごさないといけない。危ないし、何より時間を無駄に食う。帰りは疲れていたこともあって、よける気力もなくなっていたのだけど。

 門前町の写真が一回に収めるには多すぎたので、今日はここまでとして、続きは明日としたい。今日は前置きの雑談が長くなったから、これくらいでいいだろう。
 つづく。


奈良番外編は残り物写真を見ながら思い出の中の奈良巡り
2008年03月16日 (日) | 編集 |
奈良番外-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di



 奈良シリーズは終わった。でもまた奈良ネタじゃないかと思うかもしれない。本編の最終回が終わればスペシャルがあるのは世の常だ。連ドラでは回想シーンだけでスペシャルにするなんてこともある。本編が終了してスペシャルまでの間が短すぎるけど、そもそも奈良へ行ったのは去年の11月のことだから、本編の終盤3回からスペシャルが始まっているようなものだったのだ。でもそれも今回で終わる。もうネタ切れだ。
 番外編は、思い出写真で奈良を振り返ることにする。お蔵入りさせてしまうのは残念な写真を集めたらけっこうあった。あらためて見ていると、懐かしくもあり、またすぐにでも行きたくなる。ドラマ「鹿男」を観たあとだからよけいに思いが強くなった。時間や場所の都合で見に行けなかったところもいろいろある。奈良公園周辺だけでも一日で全部回るのは無理な話だった。
 行けなかったところとしてまず思い浮かぶのが、「ならまち」だ。近鉄奈良駅から南に入っていったあたりに、古くても趣のある町並が残っている。時間があれば行きたかったのだけど、今回のコースからは外れていて行けなかった。
 寺社がたくさん集まっていた場所で、東大寺や春日大社の門前町としてかつては大いに賑わったところだそうだ。空襲で焼けなかったから、江戸から明治、大正、昭和に至るまでの面影が残っている。
 ただ、ここをしっかり回ろうと思えばそれなりに時間がかかるから、有名どころの寺社巡りとの両立は難しくなる。奈良巡り中級者以上向けということになるかもしれない。
 もし行けば、写真の撮りどころがたくさんありそうではある。

奈良番外-2

 興福寺で五重塔を見たあと、春日大社へ向かう途中で鹿の群れに遭遇する。平和そうに見えるこの光景が、私の持参したサツマイモ入り手作り鹿せんべいによって大混乱を来すことになる。思いがけず好評を博してしまい、逃げまどう私とどこまでも追いかける鹿の群れ。鹿に取り囲まれ、角で尻を突き上げられる私。ほとんどカツアゲ同然に鹿は私から鹿せんべいを強奪していったのだった。神の使いのくせに、鹿はとても凶暴な生き物だ。
 それにしても、まさか自家製鹿せんべいがあれほど喜ばれるとは思ってなかった。持っていく前は食べなかったらどうしようと不安だったのだけど、あれだけ食べてくれれば本望だ。次はボストンバッグ一杯に詰めて持っていってやろう。

奈良番外-3

 あきらめることを知らない鹿たちに恐れをなした私は、義経の鵯越の逆落としさながらに崖を下り降りて、鷺池の浮見堂まで逃げた。さすがにここまでは鹿たちも追ってこられまい。
 走り回ったもんだから、季節外れの大汗をかく私。上着なんて着ちゃいられない。セーターの袖も半分まくって、この人なんでこんなに汗かいてるんだと、周りの人たちに不審な目で見られてしまうのであった。まさか11月の終わりにハンカチで汗をぬぐうことになるとは。
 ここでちょっと一休みする。まだ奈良巡りは始まったばかりだ。

奈良番外-4

 鷺池から飛火野へ行くときに一つの事故が起きる。道路を渡って、下の芝生広場に降りようと階段状になっている土のところで、落ち葉に乗って滑って激しく転んでしまったのだ。横向きに腰から落ちて、そのまま1メートルほど落下した。
 最初はデジが心配だった。体の下になってどこか打ち付けた感じがあったから。それはフードが砕けただけで済んだのだけど、ダメージは体の方にあった。左腕を大きくすりむいて一部が切れて出血。更に骨までちょっといっていた。触ると変な出っ張りができている。腰もおかしい。鹿騒動のあとはこれか。
 まあしかし、とりあえず歩いたりするのには支障がなかったので、そのままランチにすることにした。
 そういえば、傷の証拠写真を撮っておけばよかった。ちょっとグロテスクすぎてここでは見せられなかったかもしれないけど。
 今でも左腕にははっきりと傷跡が残っていて、奈良傷と呼んでいる。骨は自然治癒させた。

奈良番外-5

 ロマンチックとは言えないランチ風景。下に敷いてるのが新聞紙だ。左の方には血がついたウェットティッシュが写ってるし。
 この日はツレがもらったお菓子類でランチとなった。その前の転倒騒ぎでびっくりしてしまって、二人とも昼食どころじゃなかったってのもある。

奈良番外-6

 体もデジも大ごとにならかったのは幸いだった。昼前にデジも体もダメになっていたら何をしに奈良まで行ったか分からなくなってしまう。鹿に追いかけられて転んで帰ったなんて笑い話にもならない。
 ランチで少し落ち着いたので、奈良巡りを再開することにする。
 春日大社でお参りをしたあと、裏を抜けて若草山を右手に見ながらおみやげが建ち並ぶ道を歩いて、東大寺方面に向かった。
 若草山も登らなかったのが少し心残りだった。丘を登るのがけっこう大変そうだったし、時間の余裕もそれほどなくなっていたのでやめておいた。あの上まで登れば奈良の町並が一望できることを「鹿男」を観て知った。しまったことをした。あの景色が見られるなら、ちょっと頑張って登っておくべきだった。次に行ったときは必ず登ろう。
 上の写真はおみやげ屋さんの一場面。昭和の中の昭和といった風情のおみやげ屋さんで、商売気があまり感じられず、商品は無造作に並んでいる。
 鹿皮の財布が2,500円を消して1,500円になっていた。さっきまで鹿にエサをあげてたのに、ここでは皮になってしまっているのは、なんとも切ないものがある。鹿の角グッズもいろんなのが売られていた。中には角そのものというワイルドなおみやげもある。1万円以上してたから貴重なものなんだろう。買ってもまったく使い道がないし、誰かにおみやげとして買っていっても嫌がらせとしか思われないけど。

奈良番外-7

 大仏殿へ行く前に、正倉院を先に見ることにした。けど、ここで何度か道を間違えてしまう。どこから正倉院に入れるのか分からず、ぐるりと反対方向に無駄歩きをしてしまった。
 大仏殿の裏にもたくさん鹿たちがいる。まだ鹿せんべいが残っていたから少しあげたのに、このときは食い付きが悪かった。もう夕方近くになっていたから、観光客にもらってある程度おなかが一杯になっていたのだろう。でも、やるとやっぱり囲まれてしまうので、早々に切り上げて逃げることにした。

奈良番外-8

 ようやく正倉院の入り口を見つけたときには、無情にも入り口は閉まった後だった。なんてこった。見学は午後3時までだなんて、早すぎないか。
 帰ってきてから知ったのだけど、そもそも見学できるのは平日の午後3時までで、土日祝日は閉まっていて見られないのだった。なんて厳しいんだ。学校の教科書で習った有名な校倉造りを我が目で見られると思ったのに、残念。
 まあ、裏手の門の隙間から遠巻きに少しだけ見られたのでよしとするか。それも道を間違えたおかげだったし。
 見られるといっても、正倉院の中ではなく建物の外からだけだ。基本的に正倉院はいろんなお宝がたくさん眠っているので非公開となっている。

奈良番外-9

 東大寺前で燃える火と煙。寺でこういう煙を見ると、訳も分からず煙を頭とかにかけてしまいがちだ。絶対間違ってると思うんだけど、ついやってしまうのが人情というもので、それを見た他の人も照れくさそうにマネをする。みんな、これ違うんじゃないかなと内心思っていることだろう。
 煙を悪いところにかけると治るってのは、どこの話だっただろう。

奈良番外-10

 こんな風景を見ると、すごく季節外れに思える。
 黄色絨毯の写真を撮りたいってのが奈良へ行く理由の一つだったことも思い出す。結局、紅葉のタイミングには少し早かった。一週間あとがよかったんじゃないだろうか。
 一面の黄色い絨毯の中で鹿たちが食べ物を探して頭を垂れているところに西日が斜めに当たっている、というのが私の頭の中にあった撮りたいイメージだった。

奈良番外-11

 ここのイチョウ絨毯が一番よかった。何枚も写真を撮ったし、以前の奈良シリーズでも載せている。とても印象深いシーンの一つとなった。
 ここの写真を見ると、もう一度撮りに行きたくなる。まだ物足りなかった。時間の余裕があったら、ここだけで1時間くらい撮ってみたかったところだ。

奈良番外-12

 忘れがたいという点では、朱雀門の行き帰りもまた記憶に残った。行くのにも苦労したし、帰りはそれ以上だったから。
 何しろ待てども待てどもバスがやってこない。1時間に1本しかないバスが30分も来ないもんだから、途方に暮れてしまった。他にも待ち人がいたから、時間を間違えてるわけでもない。もうしょうがないっていうんでタクシーを呼ぼうとタクシー会社に電話をしたら、30分か40分かかるという。私たちは朱雀門の前で永遠に帰れないのかと思ったほどだ。
 あきらめて大通りの向こうまで歩くことにした。そこまで行けばバスの本数がもう少し多くなるはずだから。
 10分ほど歩いて次の停留場に着くと、そこでも一人待ちぼうけを食った人がいて、話しかけてきた。バス来ないんだけどと。いやぁ、私たちもあまりにも来ないから歩いてるんですよなんて言ってたら、後ろからバスが来た。何食わぬ顔して。
 いろいろあった奈良巡りもようやく終わりが近づいた。行けなかったところややり残したことがいくつかあったものの、もうおなかいっぱいごちそうさまだった。相当歩いたし、走ったし、転がり落ちもして、ヨレヨレだったのだけど、楽しい奈良巡りになった。
 やっぱり奈良とは相性の良さを感じる。またきっと行こう。次は別の季節とも思うけど、やっぱり紅葉の奈良に惹かれる部分が大きい。桜なら吉野だし、秋の飛鳥というのも捨てがたい。夏はちょっと歩き回るのは厳しいか。エサがたくさんあるときは鹿も私の鹿せんべいをそんなに喜んでくれないかもしれない。
 次に奈良へ行くときは、三角の鹿せんべいを持っていこう。そうしたら鹿が話かけてきてくれるかもしれない。いや、丸ままフチを三角にするのが正解か。それこそ三角縁鹿煎餅鏡だ。




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