 Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS
円頓寺・四間道シリーズが終わって、同じ日にセットで回った大須商店街にするか、赤目のあとに行った長谷寺・室生寺シリーズを始めるか、迷って長谷寺にした。円頓寺は商店街の七夕まつりがあったから優先したけど、こちらの方が先だった。気持ちの中の旬が過ぎてしまわないうちに長谷寺と室生寺のことを書いてしまうことにする。また長くなりそうだ。 近鉄大阪線の長谷寺駅を降りたら、長谷寺までは歩いて行くしかない。バスなどはなく、徒歩15分か20分くらいと、やや距離がある。 その間は門前町になっていて、古い家並みなども残っているので、見学しながらゆっくり行けばいいだろう。私の場合、長谷寺に割り当てられた時間は1時間しかなかったから、大あわての参拝になった。帰りは早足で10分で帰ってきたけど、往復の歩きだけで25分、寺を見て回る時間は30分ちょっとしかなかったのだ。赤目滝で充分すぎるほどのダメージを追ったあとだけに、長谷寺はきつかった。この日一番時間に追われた1時間でもあった。
 突然だけど、近鉄電車というのはもしかすると聖なる線かもしれない。 結ぶ路線図を見ると、大阪、京都、奈良、伊勢、名古屋と、関西地区の歴史上の重要拠点だったところをことごとく通っていることに気づく。伊勢神宮の五十鈴川、京の都の京都、難波宮(なにわのみや)の難波、平城宮の奈良、さらには飛鳥や吉野にまで伸びている。名古屋の熱田神宮を通ってないのがちょっと残念なところではあるけど。 今日から紹介する長谷寺、室生寺へ行くときも近鉄だけが頼りとなる。近鉄の路線を決定するとき、歴史的な視点というのがあったのかどうかは分からないけど、何かの力が働いたような気がしないでもない。JRが通ってないところというだけではない、使命感みたいなものを感じる。 脱線ついでにもう少し雑談をしたい。東照宮のとき書いた「太陽の道」について。 長谷寺や室生寺は、なんでこんなところにあるんだろうというのが最初の素朴な疑問だった。奈良の平城宮からは南東に20キロも30キロも離れているし、西南の飛鳥からも20キロ以上の距離がある。普通の寺なら日本全国どこにでもあるから都から離れていても不思議でもなんでもないのだけど、ここは歴史的にも重要な寺だ。国宝建築も多い。あえてこの場所にしなければいけなかった必然性がよく分からなかった。 そんなとき偶然知ったのが、太陽の道の存在だった。北緯34度32分のライン上には、太陽信仰と関係が深い神社仏閣や遺跡が点在しているというのだ。 北緯34度32分というのは、春分、秋分の日の日の出、日没ラインと重なる。この日は昼と夜の長さが同じで、西からのぼった太陽が東に沈む線上に太陽信仰のための祈祷所を建てたのは、偶然などではないだろう。 昔の人たちの暇さ加減を侮っちゃいけない。テレビもない、読む本だってそんなにない、スポーツだってそんなにないし、仕事だって忙しくはない。やることといえば太陽と共に起きだして、太陽や星を眺めて夜になったら寝るしかない。もちろん、みんながみんなそうだったわけではないけど、太陽や星の動きを観察して季節の移り変わりを知ることを専門とする人たちがいたに違いない。暦が確立していなかった時代なら尚更、季節の正確な移り変わりを太陽や星の動きで知る必要があった。それは国家的な重大事だ。 何年も観察を続けていれば、当然春と秋の彼岸にも気づいただろうし、月の満ち欠けの正確さも分かる。そこから太陰暦が生まれたのも自然な流れだった。 太陽信仰というのは、世界中にあるようでいて意外と少ないと言われている。太陽を女神に見立てるのは日本くらいだという。太陽の化身は天照大神(アマテラスオオミカミ)で、アマテラスは卑弥呼のことだという説がある。これは賛同する人と反論する人がいて、話がややこしくなるから詳しくは書かないけど、アマテラスは卑弥呼を神格化したものだとすると、いろいろなことがすっきり説明できる。 卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓もこの線上にあり、東は伊勢神宮から(その東には神島もある)、伊勢斎宮、室生寺、長谷寺、三輪山、箸墓、伊勢久留麻神社、石上神宮などが並んでいる。ついでにいうと、うちの田舎の丹生大師も線上だ。これらの寺社はどこも、太陽信仰の名残の儀式が残っているという。 ただのこじつけといえばそうなのかもしれないけど、星の動きを読むというのは当時最先端の科学であって、そのとき生きていた人たちが本気で太陽を信仰していたであろうことを思えば、自分たちが発見した彼岸の線上に太陽を拝むための場所を建てようと考えたのは必然以外の何ものでもない。現代の私たちがDr.コパの風水の本を読んで黄色い財布を買うのとは訳が違う。もっと時代が進んで風水という思想が入ってきたときは、それを本気で取り入れて都を作った。それは迷信などではなく、その時代の科学に基づいているわけだから、現代の科学で判断して間違っているとかいう問題ではない。平安時代は陰陽道が国の機関の一つとして存在した。 長谷寺や室生寺の起源についても、よく分かっていないというのが実際のところのようだ。寺伝によると奈良時代の686年ということになっているけど、もっと古い可能性がある。長谷寺のあたりは古くは隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)と呼ばれ、三輪山あたりは冥界への入り口があると言われた場所だ。三輪山は縄文時代から信仰の対象となっていたとも言われている。 当時、太陽の道についての認識があったとすれば、伊勢神宮やその他の寺社ががどういう経緯と意図を持って建てられたかという知識もあっただろうし、それを踏まえて長谷寺なども建てられた可能性が高い。そういうことなら、この場所というのも納得がいく。 邪馬台国論争は終わりそうにないけど、とりあえず箸墓古墳を発掘すれば重要な手がかりが出てくることだろう。宮内庁が管理していて、古墳に関してはほとんど学術調査も許されない現状ではそれも無理か。 北九州にあった邪馬台国が、大和の別の民族に勝って、大和に移ってきて大和朝廷(ヤマト王権)を築いたという説が一番理にかなっていると思うけどどうなんだろう。それで卑弥呼が死んで、箸墓に埋葬されてアマテラスの神話が生み出されて、天皇家につながっているのだとすれば、それもまた筋が通る。この時代のことだから、事実はそんなに複雑怪奇ではなかったはずだ。分かってしまえば、非情に単純な話だったんじゃないだろうか。 この世で一番タイムマシンを欲しがっているのは考古学者や歴史学者だろう。自分が最初に失われた歴史の発見者となって真実を知って、大威張りしたいと思っているに違いない。でも、彼らから生き甲斐を奪ってしまうのもまたタイムマシンだ。ああでもないこうでもない、おまえの説は間違ってる自分の考えが正しいんだと言い合っている現状が幸せなのかもしれない。 私は卑弥呼が誰であっても、邪馬台国がどこにあったとしても、特に困ることはない。こういう話が面白くて好きなだけだ。 長い雑談はこれにて終了。今日中に長谷寺まではたどり着けそうにない。門前町の途中で終わりになりそうだ。
 駅から長谷寺への道は、最初案内らしい案内も出ていないので、ちょっと不安だった。駅の正面の階段を下りると、古い家並みが続いている。 昔ながらのたばこ屋さんもあったりするけど、タスポなんて面倒なものの存在で、こういう個人のたばこ屋さんもだんだん姿を消していくことになるのだろう。
 長谷寺駅は、やはり名前からしても長谷寺へ行く人が乗り降りする駅ということになるのだろう。開けた街中ではなく、どちらかというと山間の集落というのに近い。住宅地という感じでもない。 この先に進むと長谷寺の門前町が始まる。そことの境界線はどうなっているのだろう。近鉄が走っているとはいえ、奈良や大阪へ通うにはちょっと遠いか。長谷寺駅は急行も止まらない。
 このあたりの家もなかなか古そうだ。 下りの階段を下りたら左に曲がって、坂道を下っていくと初瀬の交差点に出る。そこまで行けば、もう門前町の風情になってくるから分かる。初瀬川に架かる橋を渡って右へ曲がると、本格的に門前町が始まる。
 初瀬川沿いの家並みも、雰囲気があっていい感じだった。時間があったら、このあたりの曲がりくねった路地散策をしたかったところだけど、何しろ時間がなかった。駅から長谷寺へも、急げば10分くらいで行くだろうと甘く見ていたら、思いがけず遠かった。特に行きは写真を撮りながらだったこともあって時間を食った。 駅から長谷寺参拝の往復1時間はかなり厳しい。最低でも1時間半は欲しい。
 景観保存にも力を入れているようで、こういう昔の家がたくさん残されていた。こんな古い家並みがあるとはまったく知らなかったから、思いがけない収穫と喜んだ。 長谷寺は平安時代からの人気参拝スポットだったから、門前町の歴史も古い。長谷寺といえばボタンの寺として有名だけど、この門前町はもっと宣伝材料にしてもいい。この町並だけでも見に行く価値がある。
 古そうなお米屋さんもあった。 のれんには三輪そうめんとある。そうか、三輪そうめんって、ここのことだったのかと、初めて知る。名前だけは知っていたけど、どこのものかなんて考えたことがなかった。 三輪地方がそうめん発祥の地という説があるそうだ。大物主命(オオモノヌシノミコト)の子孫である朝臣狭井久佐の次男穀主が初めて作ったのだとか。 そうめんとひやむぎの違いを知っているだろうか。細さの違いが一つと、手延べそうめんという言葉があるように、手で伸ばして細くするのがそうめんで、こねて延ばしたものを切ったのがひやむぎとなる。私は断然、そうめん派だ。 ここが発祥の地と知ってたら、三輪そうめんをおみやげに買っていったのに。
 途中で小さな神社っぽいものがいくつかあったけど、外から写真を撮っただけで挨拶の代わりとさせてもらった。
 古いままの建物と、改装して新しくなったものとが混在している。町並保存地区にまではなっていないようだ。 それにしてもこの道は車通りが多い。歩道もないし、車が来ると立ち止まってやり過ごさないといけない。危ないし、何より時間を無駄に食う。帰りは疲れていたこともあって、よける気力もなくなっていたのだけど。
門前町の写真が一回に収めるには多すぎたので、今日はここまでとして、続きは明日としたい。今日は前置きの雑談が長くなったから、これくらいでいいだろう。 つづく。
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