 Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS
今日から何回かに渡って、名古屋の大須という街について紹介していこうと思う。 大須ってどんなところなのと訊かれても、一言では答えられない。一般的には、秋葉原と浅草と上野を足して小さくしたような街と説明されることが多いけど、そんなに分かりやすいところではない。原宿や巣鴨の要素も併せ持ちながら、実際はどこにも似ていない。大須は大須でしかなく、名古屋でも他に似た街はない。すごく雑多なところで、どうにも説明するのが難しいところなのだ。 電気屋街といっても家電製品よりPCやパーツショップが中心で、大型電気店が集まる秋葉原とは性格が違う。そしてそれは、大須の一つの顔に過ぎない。 人にとっては古着の街だし、別の人にとってはオーディオの街でもある。オタク系のボーイたち、皮系ファッションのカップル、おばあちゃん、おじさん、ギャル、兄ちゃん、アジア系の外国人、サラリーマン、家族連れ、主婦などが混在していて、誰が主役というわけでもない。日本有数の仏壇屋街でもあり、名古屋一の家具屋街でもある。昔からの問屋街でファッション関係の店も多く、近年は多国籍な飲食店が増えてきている。 秋葉原で有名になったおでん缶も、メイド喫茶も、大須が発祥だ。大須ういろう、矢場とん、寿がきや、天むすの「千寿」など、大須から生まれた名古屋名物も多い。 様々な種類のマニアックな専門店が集まる複合専門店街、と言えばそう遠くはないだろうか。活気があるといえばそうだし、雑然としているといえばそうで、名古屋人でも好き嫌いが別れる街でもある。私は昔から苦手なところだった。中学、高校のとき、よく行っていたのは、当時はまだパソコン(その頃はマイコンといっていた)が一般的ではなく、ソフトやパーツを買うには大須へ行くしかなかったからだ。札のお金は靴下に隠していかないといけないような感じがあるくらいのところだった。 しばらく寄りつかなくて、この前行ったのがずいぶん久々のこととなった。ビデオデッキを修理するためのコンデンサを買いにいったのは、もう2年くらい前になるだろうか。 8月3日のこの日曜日は、ちょうど大須まつりというのが開催されていて、普段の休日よりも人が多かった。良く言えばエネルギッシュ、個人的にはやっぱり雑然とした感じが苦手で、思うように写真が撮れずに歯がゆい思いをした。それでも、神社仏閣の写真を中心にけっこう枚数があるから、ゆっくり進めていくことにしよう。 私の及び腰の写真で大須の魅力をどこまでお伝えできるだろう。今回はさっぱり自信がない。
 万松寺通商店街入り口の天津甘栗の店は昔からの馴染みだ。私がよく行っていたのが、この万松寺通で、天津甘栗の店の前をいつも通っていた。 久々に見たら店がえらく新しくなっていて驚く。昔はこんな小綺麗な店じゃなかった。創業明治39年の老舗で、店構えもいかにもという雰囲気を持っていた。 あの頃は前を通ると店の外まで甘栗の濃厚な香りがあふれ出していて、胸が悪くなりそうなくらいだったのに、その匂いはずいぶんおとなしくなっていた。ちょっと寂しく感じる。 今井総本家の上に建っている大きなビルが、少し前話題になった大須301ビルだ。そうか、ここに建ったのか。つい最近のことだと思っていたら、2003年オープンというからもう5年も前のことになる。考えてみると、大須のこのあたりもずいぶん久しぶりだ。私がよく行っていたのは20年以上前だから、そりゃあ大須も変わって当然だ。昔通った「マイコンテック」や「三洋堂書店 上前津店 Σ」なんかはまだあるんだろうか。 大須301ビルは、大須再開発の一環として複数の地権者が共同で建てたテナントビルで、ワンフロアすべてが中華料理店ということでも話題を集めた。これで横浜の中華街の要素も取り込んだと、名古屋人はちょっと自慢だったのだ。ただ、2フロア分店を集める計画が縮小してワンフロア12店舗となってしまい、ややしょんぼりしてしまった感はある。できた頃は押すなおすなの大盛況だったようだけど、飽きっぽい名古屋人のことだから、今はもう空いていることだろう。サンシャイン栄の名古屋麺屋横丁の二の舞にならないか心配だ。
 アーケードもずいぶんきれいになっていた。前はこんなに明るくて健全な感じではなかった。もっと昭和然としていた。屋根も床もだいぶ改築したらしい。私の中にあった大須のイメージが良くも悪くも崩れてしまった。 最初にFM-7というマイコンを買ったとき、この通りを入ってすぐ右のゲームセンターの2階にあった中古ソフト屋によく行った。大須の一番の思い出はこの店だ。 FM-7のCPUは8MHzで(2つ搭載)、メインメモリは64kBだった。それでも当時は処理速度が速いということで評判だったのだ。あれからX1までのゲームが一番楽しかった気がする。BASICのプログラムを打ち込んで、それがちゃんと動いただけでも嬉しかった。そういう時代を知ることができたのは幸運だったと思う。
 アーケード街の中に萬松寺(ばんしょうじ)というお寺がある(万松寺と書いた方が通りがいいか)。現在の大須の発展は、この万松寺から始まったと言っていい。 もともとは、信長の父で古渡城主だった織田信秀が織田家の菩提寺として、那古野城の南側に建てたのが始まりだった。開山は、信秀の伯父で、赤津の雲興寺七世だった大雲永瑞大和尚。本尊は十一面観世音菩薩像。1540年のことだから、名古屋城が築城される60年以上前の話だ。 中区錦から丸の内二、三丁目までと広大な寺領を持ち、大殿を中心に七堂伽藍が備わっていたという。 徳川家康が6歳で今川の人質となるとき(1547年)、途中で奪還されて尾張に連れてこられ、2年余りを過ごしたのがこの万松寺だった。そのとき、家康は8歳年上の信長と出会っている。 1552年、父信秀の葬儀が万松寺で行われた。僧300人や重臣が居並び、粛々と葬儀が進む中、喪主である信長は馬に乗って裸同然の姿で現れ、無言で前に進むと、抹香をわしづかみにして位牌に投げつけ、無言のまま去っていった。信秀42歳の早すぎる死に対する屈折した思いだったのか。このとき信長18歳。「尾張のうつけ」と呼ばれ、信長の代で尾張は滅びると誰もが本気で思い、嘆いたものだった。桶狭間の戦いで今川義元を破るのは、それから9年後のことだ。
 1610年、名古屋城築城に伴う清洲越で、大須は寺社の区域と定められて、大須観音などと共に万松寺もこの地に移ってきた。大須という地名は、もとは岐阜県羽島市大須にあった大須観音の移転でつけられたものだ。それまでここらは小林邑と呼ばれていた。江戸時代の大須は、門前町として発展を遂げることになる。 幕末以降はかなり衰退したらしく、それを見かねて万松寺の大円覚典和尚が大正元年(1912年)に、二万坪以上あった寺領の大部分を開放するに至った。それを機に街作りが進み、大須は再び賑わいを取り戻すこととなる。しかし、大須の浮き沈みはまだまだ終わらない。 大正から昭和の戦前にかけて、大須は名古屋有数の歓楽街として成長していく。栄、大須、円頓寺が当時の名古屋でもっとも華やかな場所だったというのは円頓寺のところでも書いた通りだ。劇場や演芸場、映画館などがたくさん建てられ、旭遊郭もあった。大道芸人や曲芸師などが集まり、祭りの日ともなれば10万人以上が集まったという。 しかし、少しずつ時代も街も変わっていった。旭遊郭は中村区大門に移り、日本は戦争に負け、名古屋大空襲で大須も焼け野原になった。大須観音も万松寺もすっかり焼けてしまった。 戦後少しずつ復興が進む中、1947年、大須に野球場が建設されたことを知る名古屋人は少ないかもしれない。今の名古屋スポーツセンター(大須スケートリンク)がある場所に大須球場はあった。けど、ここは大須二子山古墳と空襲で焼けた本願寺名古屋別院の跡地という罰当たりなところだった。昭和27年(1952年)の大須事件の舞台になったところということで知っている人もいるだろう。その年、大須球場は解体された。それ以前の1949年に、中日ドラゴンズの本拠地は中日スタヂアムに移っていた。 昭和30年代になると日本は映画ブームとなり、映画館街だった大須にまた人が戻ってきた。しかしそれも束の間、映画人気がすたれると、大須からも人は遠のいた。 それでも大須は商店街として復興を目指し、1965年には大須演芸場も作った。1967年に地下鉄名城線の上前津駅、1977年には鶴舞線の大須観音駅ができ、交通の便がよくなるとまた人が戻ってきた。その後の大須を決定づけたのが、1977年にできたラジオセンターアメ横ビル(今の第1アメ横ビル)のオープンだった。1984年には第2アメ横ビルもできて、大須はパソコン時代の到来に合わせるようにパソコンの街としての復活を遂げることとなる。 私がよく行っていた時期は、ちょうとどん底を抜けて電気屋街に変貌しつつあるときだったのだろう。当時は写真を撮るなんて頭はまったくなくて、ぼんやりした記憶だけしか残っていない。それでも大須はもっと古めかしい商店街という印象だった。あの頃の写真が残っていて今見たら、とても懐かしく感じることだろう。あの頃、日常を写真に残すという発想はまったくなかった。
 万松寺と隣り合わせで、白雪枳尼真天(はくせつだきにしんてん)が祀られている白雪稲荷がある。 白雪枳尼真天というのは、この地に千年も住んでいるという白狐の神様で、そこにはこんな話がある。 万松寺が衰退してお金がなくなり困っていたところ、御小女郎なる者がやって来てお金を置いていった。後日、吉原から人が訪ねてきて、新しく雇い入れた女が去っていくときに「我は万松寺稲荷だった」と言い置いていったので確かめにきたのだという。さてはここの白狐さんが女に化けて吉原で稼いできてくれたらしいということになり、万松寺は白雪稲荷に感謝して、ますます大事にするようになったというお話だ。 吉原の店もそれ以来繁盛するようになったというので、以来評判が高まり、水商売関係の人も多く参拝に訪れるようになったという。 万松寺には、身代り不動明王というのもある。信長が越前の朝倉城を攻めた帰り道、琵琶湖近くで杉谷善住坊に鉄砲でねらい撃ちされて2発命中したものの、懐にあった万松寺の和尚からもらった干餅に当たって命を救われたということがあった。これも日頃信仰している不動明王の加護によるものということで、のちに加藤清正が万松寺の不動明王を身代り不動と名づけたのだった。加藤清正は名古屋城築城のとき、万松寺に寝泊まりしていて、毎日ここの不動明王にお参りしていたそうだ。 これにちなんで、毎月28日は境内で餅つきをして、参拝者に配っている。 万松寺の和尚は昔も今もユニークな人物が多いようで、今の住職もかなり変わってる。2002年には日本で初めて、パソコン供養なるものを行って話題となった。使わなくなったけど捨てるにはしのびないパソコンなどを集めて境内で供養したのだ。そのときは全部で200台近く集まったという。その後これは続いてるんだろうか。 今ではメジャーになりつつ世界コスプレサミットも、もともとは住職が経営していたパソコンショップのイベントとして行われたものだった。2003年から数えて今年で6回目となり、本当に世界規模の大会になってきた。最初は4ヶ国だったものが今年の参加国は13となった。私が行った前日の8月2日は、大須の商店街で世界のコスプレイヤーたちによるパレードがあった。3日はオアシス21で本大会が開かれ、今年はブラジルがチャンピオンになった。発祥の地である日本はいまだに勝てていない。一般の人はまったく知らないイベントだと思うけど、こんなことも名古屋では行われているのだ。
 狭い境内ではこのとき何かのイベントがあった模様。人垣ができていて何をしているか見えなかった。 万松寺の本堂はこの奥で、近代的なビルの姿をしている。空襲で焼けてからようやく再建がかなったのは平成6年のことだった。 ここのからくり人形も名物の一つとなっている。毎日10時から18時まで2時間おきに、鐘の音と共に小窓の扉がぎぎぃーっと開いて、信長のからくり人形が出てくる。前半は抹香を投げつけたシーンが再現され、後半は人間五十年の敦盛を舞うのだ。ただし、人形が濡れるといけないので、雨天中止。
予定ではもう少し話を先に進めて、巨大招き猫や春日神社のことを書くつもりだったのに、万松寺と商店街の歴史を長々と書きすぎて、ここで力尽きた。だいぶ長くなったし、今日はここまでとしよう。続きはまたあさって以降だ。 大須の歴史と今についてはこれでだいたい書いたから、次からは写真中心になると思う。写真で大須が持つ空気感が少しでも伝わるといいのだけど。
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