現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
大須を一言で説明するのは難しいから長々と説明することにした 〜大須1回
2008年08月24日 (日) | 編集 |
大須1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今日から何回かに渡って、名古屋の大須という街について紹介していこうと思う。
 大須ってどんなところなのと訊かれても、一言では答えられない。一般的には、秋葉原と浅草と上野を足して小さくしたような街と説明されることが多いけど、そんなに分かりやすいところではない。原宿や巣鴨の要素も併せ持ちながら、実際はどこにも似ていない。大須は大須でしかなく、名古屋でも他に似た街はない。すごく雑多なところで、どうにも説明するのが難しいところなのだ。
 電気屋街といっても家電製品よりPCやパーツショップが中心で、大型電気店が集まる秋葉原とは性格が違う。そしてそれは、大須の一つの顔に過ぎない。
 人にとっては古着の街だし、別の人にとってはオーディオの街でもある。オタク系のボーイたち、皮系ファッションのカップル、おばあちゃん、おじさん、ギャル、兄ちゃん、アジア系の外国人、サラリーマン、家族連れ、主婦などが混在していて、誰が主役というわけでもない。日本有数の仏壇屋街でもあり、名古屋一の家具屋街でもある。昔からの問屋街でファッション関係の店も多く、近年は多国籍な飲食店が増えてきている。
 秋葉原で有名になったおでん缶も、メイド喫茶も、大須が発祥だ。大須ういろう、矢場とん、寿がきや、天むすの「千寿」など、大須から生まれた名古屋名物も多い。
 様々な種類のマニアックな専門店が集まる複合専門店街、と言えばそう遠くはないだろうか。活気があるといえばそうだし、雑然としているといえばそうで、名古屋人でも好き嫌いが別れる街でもある。私は昔から苦手なところだった。中学、高校のとき、よく行っていたのは、当時はまだパソコン(その頃はマイコンといっていた)が一般的ではなく、ソフトやパーツを買うには大須へ行くしかなかったからだ。札のお金は靴下に隠していかないといけないような感じがあるくらいのところだった。
 しばらく寄りつかなくて、この前行ったのがずいぶん久々のこととなった。ビデオデッキを修理するためのコンデンサを買いにいったのは、もう2年くらい前になるだろうか。
 8月3日のこの日曜日は、ちょうど大須まつりというのが開催されていて、普段の休日よりも人が多かった。良く言えばエネルギッシュ、個人的にはやっぱり雑然とした感じが苦手で、思うように写真が撮れずに歯がゆい思いをした。それでも、神社仏閣の写真を中心にけっこう枚数があるから、ゆっくり進めていくことにしよう。
 私の及び腰の写真で大須の魅力をどこまでお伝えできるだろう。今回はさっぱり自信がない。

大須1-8

 万松寺通商店街入り口の天津甘栗の店は昔からの馴染みだ。私がよく行っていたのが、この万松寺通で、天津甘栗の店の前をいつも通っていた。
 久々に見たら店がえらく新しくなっていて驚く。昔はこんな小綺麗な店じゃなかった。創業明治39年の老舗で、店構えもいかにもという雰囲気を持っていた。
 あの頃は前を通ると店の外まで甘栗の濃厚な香りがあふれ出していて、胸が悪くなりそうなくらいだったのに、その匂いはずいぶんおとなしくなっていた。ちょっと寂しく感じる。
 今井総本家の上に建っている大きなビルが、少し前話題になった大須301ビルだ。そうか、ここに建ったのか。つい最近のことだと思っていたら、2003年オープンというからもう5年も前のことになる。考えてみると、大須のこのあたりもずいぶん久しぶりだ。私がよく行っていたのは20年以上前だから、そりゃあ大須も変わって当然だ。昔通った「マイコンテック」や「三洋堂書店 上前津店 Σ」なんかはまだあるんだろうか。
 大須301ビルは、大須再開発の一環として複数の地権者が共同で建てたテナントビルで、ワンフロアすべてが中華料理店ということでも話題を集めた。これで横浜の中華街の要素も取り込んだと、名古屋人はちょっと自慢だったのだ。ただ、2フロア分店を集める計画が縮小してワンフロア12店舗となってしまい、ややしょんぼりしてしまった感はある。できた頃は押すなおすなの大盛況だったようだけど、飽きっぽい名古屋人のことだから、今はもう空いていることだろう。サンシャイン栄の名古屋麺屋横丁の二の舞にならないか心配だ。

大須1-9

 アーケードもずいぶんきれいになっていた。前はこんなに明るくて健全な感じではなかった。もっと昭和然としていた。屋根も床もだいぶ改築したらしい。私の中にあった大須のイメージが良くも悪くも崩れてしまった。
 最初にFM-7というマイコンを買ったとき、この通りを入ってすぐ右のゲームセンターの2階にあった中古ソフト屋によく行った。大須の一番の思い出はこの店だ。
 FM-7のCPUは8MHzで(2つ搭載)、メインメモリは64kBだった。それでも当時は処理速度が速いということで評判だったのだ。あれからX1までのゲームが一番楽しかった気がする。BASICのプログラムを打ち込んで、それがちゃんと動いただけでも嬉しかった。そういう時代を知ることができたのは幸運だったと思う。

大須1-10

 アーケード街の中に萬松寺(ばんしょうじ)というお寺がある(万松寺と書いた方が通りがいいか)。現在の大須の発展は、この万松寺から始まったと言っていい。
 もともとは、信長の父で古渡城主だった織田信秀が織田家の菩提寺として、那古野城の南側に建てたのが始まりだった。開山は、信秀の伯父で、赤津の雲興寺七世だった大雲永瑞大和尚。本尊は十一面観世音菩薩像。1540年のことだから、名古屋城が築城される60年以上前の話だ。
 中区錦から丸の内二、三丁目までと広大な寺領を持ち、大殿を中心に七堂伽藍が備わっていたという。
 徳川家康が6歳で今川の人質となるとき(1547年)、途中で奪還されて尾張に連れてこられ、2年余りを過ごしたのがこの万松寺だった。そのとき、家康は8歳年上の信長と出会っている。
 1552年、父信秀の葬儀が万松寺で行われた。僧300人や重臣が居並び、粛々と葬儀が進む中、喪主である信長は馬に乗って裸同然の姿で現れ、無言で前に進むと、抹香をわしづかみにして位牌に投げつけ、無言のまま去っていった。信秀42歳の早すぎる死に対する屈折した思いだったのか。このとき信長18歳。「尾張のうつけ」と呼ばれ、信長の代で尾張は滅びると誰もが本気で思い、嘆いたものだった。桶狭間の戦いで今川義元を破るのは、それから9年後のことだ。

大須1-12

 1610年、名古屋城築城に伴う清洲越で、大須は寺社の区域と定められて、大須観音などと共に万松寺もこの地に移ってきた。大須という地名は、もとは岐阜県羽島市大須にあった大須観音の移転でつけられたものだ。それまでここらは小林邑と呼ばれていた。江戸時代の大須は、門前町として発展を遂げることになる。
 幕末以降はかなり衰退したらしく、それを見かねて万松寺の大円覚典和尚が大正元年(1912年)に、二万坪以上あった寺領の大部分を開放するに至った。それを機に街作りが進み、大須は再び賑わいを取り戻すこととなる。しかし、大須の浮き沈みはまだまだ終わらない。
 大正から昭和の戦前にかけて、大須は名古屋有数の歓楽街として成長していく。栄、大須、円頓寺が当時の名古屋でもっとも華やかな場所だったというのは円頓寺のところでも書いた通りだ。劇場や演芸場、映画館などがたくさん建てられ、旭遊郭もあった。大道芸人や曲芸師などが集まり、祭りの日ともなれば10万人以上が集まったという。
 しかし、少しずつ時代も街も変わっていった。旭遊郭は中村区大門に移り、日本は戦争に負け、名古屋大空襲で大須も焼け野原になった。大須観音も万松寺もすっかり焼けてしまった。
 戦後少しずつ復興が進む中、1947年、大須に野球場が建設されたことを知る名古屋人は少ないかもしれない。今の名古屋スポーツセンター(大須スケートリンク)がある場所に大須球場はあった。けど、ここは大須二子山古墳と空襲で焼けた本願寺名古屋別院の跡地という罰当たりなところだった。昭和27年(1952年)の大須事件の舞台になったところということで知っている人もいるだろう。その年、大須球場は解体された。それ以前の1949年に、中日ドラゴンズの本拠地は中日スタヂアムに移っていた。
 昭和30年代になると日本は映画ブームとなり、映画館街だった大須にまた人が戻ってきた。しかしそれも束の間、映画人気がすたれると、大須からも人は遠のいた。
 それでも大須は商店街として復興を目指し、1965年には大須演芸場も作った。1967年に地下鉄名城線の上前津駅、1977年には鶴舞線の大須観音駅ができ、交通の便がよくなるとまた人が戻ってきた。その後の大須を決定づけたのが、1977年にできたラジオセンターアメ横ビル(今の第1アメ横ビル)のオープンだった。1984年には第2アメ横ビルもできて、大須はパソコン時代の到来に合わせるようにパソコンの街としての復活を遂げることとなる。
 私がよく行っていた時期は、ちょうとどん底を抜けて電気屋街に変貌しつつあるときだったのだろう。当時は写真を撮るなんて頭はまったくなくて、ぼんやりした記憶だけしか残っていない。それでも大須はもっと古めかしい商店街という印象だった。あの頃の写真が残っていて今見たら、とても懐かしく感じることだろう。あの頃、日常を写真に残すという発想はまったくなかった。

大須1-11

 万松寺と隣り合わせで、白雪枳尼真天(はくせつだきにしんてん)が祀られている白雪稲荷がある。
 白雪枳尼真天というのは、この地に千年も住んでいるという白狐の神様で、そこにはこんな話がある。
 万松寺が衰退してお金がなくなり困っていたところ、御小女郎なる者がやって来てお金を置いていった。後日、吉原から人が訪ねてきて、新しく雇い入れた女が去っていくときに「我は万松寺稲荷だった」と言い置いていったので確かめにきたのだという。さてはここの白狐さんが女に化けて吉原で稼いできてくれたらしいということになり、万松寺は白雪稲荷に感謝して、ますます大事にするようになったというお話だ。
 吉原の店もそれ以来繁盛するようになったというので、以来評判が高まり、水商売関係の人も多く参拝に訪れるようになったという。
 万松寺には、身代り不動明王というのもある。信長が越前の朝倉城を攻めた帰り道、琵琶湖近くで杉谷善住坊に鉄砲でねらい撃ちされて2発命中したものの、懐にあった万松寺の和尚からもらった干餅に当たって命を救われたということがあった。これも日頃信仰している不動明王の加護によるものということで、のちに加藤清正が万松寺の不動明王を身代り不動と名づけたのだった。加藤清正は名古屋城築城のとき、万松寺に寝泊まりしていて、毎日ここの不動明王にお参りしていたそうだ。
 これにちなんで、毎月28日は境内で餅つきをして、参拝者に配っている。
 万松寺の和尚は昔も今もユニークな人物が多いようで、今の住職もかなり変わってる。2002年には日本で初めて、パソコン供養なるものを行って話題となった。使わなくなったけど捨てるにはしのびないパソコンなどを集めて境内で供養したのだ。そのときは全部で200台近く集まったという。その後これは続いてるんだろうか。
 今ではメジャーになりつつ世界コスプレサミットも、もともとは住職が経営していたパソコンショップのイベントとして行われたものだった。2003年から数えて今年で6回目となり、本当に世界規模の大会になってきた。最初は4ヶ国だったものが今年の参加国は13となった。私が行った前日の8月2日は、大須の商店街で世界のコスプレイヤーたちによるパレードがあった。3日はオアシス21で本大会が開かれ、今年はブラジルがチャンピオンになった。発祥の地である日本はいまだに勝てていない。一般の人はまったく知らないイベントだと思うけど、こんなことも名古屋では行われているのだ。

大須1-13

 狭い境内ではこのとき何かのイベントがあった模様。人垣ができていて何をしているか見えなかった。
 万松寺の本堂はこの奥で、近代的なビルの姿をしている。空襲で焼けてからようやく再建がかなったのは平成6年のことだった。
 ここのからくり人形も名物の一つとなっている。毎日10時から18時まで2時間おきに、鐘の音と共に小窓の扉がぎぎぃーっと開いて、信長のからくり人形が出てくる。前半は抹香を投げつけたシーンが再現され、後半は人間五十年の敦盛を舞うのだ。ただし、人形が濡れるといけないので、雨天中止。

 予定ではもう少し話を先に進めて、巨大招き猫や春日神社のことを書くつもりだったのに、万松寺と商店街の歴史を長々と書きすぎて、ここで力尽きた。だいぶ長くなったし、今日はここまでとしよう。続きはまたあさって以降だ。
 大須の歴史と今についてはこれでだいたい書いたから、次からは写真中心になると思う。写真で大須が持つ空気感が少しでも伝わるといいのだけど。


赤目行きは歩いて焦って限界を超えてなんとか完走 〜室生寺第三回
2008年08月23日 (土) | 編集 |
室生寺3-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 室生寺奥の院の石段は普通の状態でも厳しいのに、残り少ない体力で登っていくようなところではなかった。こんなに急な登りが長く続くとは知らず、いったん登り始めたからには後には引けなかった。
 この日はあまりの疲労に食欲が完全に飛んでしまって、前日の夜からここまで18時間以上何も食べていなかった。とにかくアクエリアスやコーヒーなどを飲み続けて、それをエネルギーに替えていた。家に帰ってから体重を量ったら、一日足らずで5キロも減っていた。ボクサー並みの減量だ。今思い出してもこの日は過酷すぎた。
 帰りの時間も迫っていたから、石段の途中でおちおち休んでもいられない。重たい足取りで一歩ずつ登っていく。上までは果てしなく遠く感じた。
 帰りは楽かといえばそうじゃない。下りはヒザへの負担が大きいからかえってつらい。途中で完全にヒザがおかしくなった。
 もう、今はすっかり体重もヒザも元通りになった。超回復で前より丈夫になったことだろう。またそろそろロングウォークの時期が近づいている。

室生寺3-2

 歩いた時間はそれほど長くなったのかもしれない。せいぜい15分かそれくらいだったのだろう。ようやく何かの建物が見えてきた。ここが奥の院だろうか。まだ油断はできない。安心して続きがあると、ガクッときてしまうから。
 この懸造の建物は、位牌堂だ。間違いない、ここが奥の院だ。やれやれ、やっと着いたか。なんでこんな上に作ったんだ。いくら奥の院といったって、こんなに奥にすることはない。
 それはともかくとして、この位牌堂の懸造は見事なものだ。足場の枠組みがとても美しい。しばし見入る。
 ただ、この足が何かの理由でボキッといってしまったときは、建物ごと斜面を転がり落ちていくことになりそうだ。舞台の上にあまりたくさん人が乗ると危ないかもしれない。

室生寺3-3

 左が位牌堂で、右が御影堂(みえどう)。
 位牌堂は供養の儀式をするための堂で、御影堂は弘法大師空海を祀る堂となっている。太子堂とも呼ばれている。空海がこの寺に直接関わったのかどうかは分からない。真言密教の開祖ということで祀られているのだろう。これも鎌倉時代の建物で、重文指定になっている。
 御影堂は、ごえいどうとも読み、いわゆる開山堂だ。開山や宗祖を祀る堂ということでこう呼ばれる。
 ここ室生寺の御影堂には、弘法大師空海42歳の像が安置されている。

室生寺3-4

 奥の院まで行ったからといって、何がどうなるわけでもない。建物としては、上の二つがあるくらいで、特に見所とも言えない。位牌堂の懸造は一見の価値があることはあるにしても、行くか行かないかは意地の問題だ。
 上まで行っても夏場は木々が視界を遮って、見晴らしも悪い。葉の間からわずかに室生の町が見えるばかりだ。
 記念にぐるりと一周回って、ベンチを発見。嬉しくなって座ったのも束の間、いかん、時間がない、こうしちゃいられないというわけで、早々に奥の院をあとにした。奥の院での滞在時間は5分弱。あんなに苦労して登ったのに。

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 本堂の近くに、北畠親房の墓とされる五輪塔(重文)がある。なんで室生寺に?
 北畠親房といえば、南北朝時代の公家で、後醍醐天皇死去ののち、南朝の指導的立場にあった人物だ。南朝の正当性を主張するために『神皇正統記』を書いたことでも知られている。
 その北畠親房の墓がどうして室生寺にあるのか、よく分かっていないらしい。1354年に奈良県吉野の賀名生(あのう)というところで死去している。現在の五條市で、南朝時代の首都の一つだったところだ。室生寺からはずいぶん離れている。生前にこの寺と関係があったのか、寺の誰かと知り合いだったのか。
 大正5年(1916年)に発掘調査が行われて、木製五輪塔や納骨壷が見つかったものの、誰の墓かは判明しなかったそうだ。特に嘘をつく理由もないと思うけど。
 南北朝時代については、私自身よく分かっていない部分もあるので、機会があれば勉強して書きたいと考えている。

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 夕方5時前に室生寺をあとにする。なんとか奥の院まで行って、1時間弱で見学を終わらせることができた。ここまでは予定通り。ほぼ狂いなし。あとは2時間かけて駅までの7キロを歩くだけだ。
 散歩や散策ならともかく、単なる移動で7キロは普通歩かない。東京でいうと、新宿駅から東京駅まで歩くのと同じくらいだ。いくらお金がなくても、ほとんどの人は新宿から東京駅までは歩かない。名古屋なら、名駅から東山動物園くらいだ。名古屋人がそんな距離を歩くはずがない。
 道はほぼ室生川沿いで、なんとなくハイキングコースのようにはなっていなくもない。行き帰りに歩くという人もいるのだろう。ただ、けっこう車通りが多くて、歩道がないところもあるので、あまり気分のいい散策路ではない。林道のようなものだったら、もう少し気分よく歩けただろう。

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 歩けども、歩けども、駅に近づいたような気がしない。気が遠くなりそうだ。道のりが果てなさすぎる。奥の院の石段の方がましだったとさえ思う。この帰り道は本当に遠く感じた。途中からとにかく、もう歩きたくないと思いで頭の中が一杯になった。歩くという行為にほとほとうんざりした。走るのと違って歩くことに限界はないと思っていたけど、やっぱり限界ってあるものなんだと思い知る。
 客観的に見たら、ものすごくトボトボ歩いたと思う。カメラをぶら下げていなければ、遭難者か何かかと思って車が止まってくれただろう。けど、カメラを持ってるから、好きで歩いてはるんだろうなと通りすぎるドライバーは判断したらしい。ついに最後まで一台も止まってくれることはなかった。室生口大野駅と大きく書いた紙を背中に貼っておくべきだったか。
 赤目滝で一度限界を超えてウォーキングハイ状態になり、長谷寺の帰りでダウン寸前まで追い込まれ、室生口の前半はまた復活模様だったのに奥の院でやられて、室生口からの帰り道でトワイライトゾーンに入った。疲労度のパーソナルベストをたたき出して、自分の歩き能力の限界を知った。
 そんなとき、私を励ますためにある使者が送り込まれてきた。それが下の写真の鹿さんだ。

室生寺3-8

 最初、道路沿いの川岸にいて、私の姿に驚いて、キョン、キョン、キョンというような大きな声を上げて、川をバシャバシャ渡って対岸まで駆けていった。突然の出来事に驚いたのは私も一緒で、とっさにカメラを向けられず、走っている姿を捉えることができなかった。撮ることができたのは、向こう岸に渡ったあとだった。惜しいことをした。この日は望遠レンズも持っていなかった。
 向こうにいったあともこちらをじっと見つめたまま、山中に響き渡るような大きな声で鳴き続けた。鹿があんなに大きな声を出す動物だというのを初めて知った。動物園や奈良公園にいる鹿はほとんど鳴かない。それはまさに、野生の呼び声だった。この声と姿の凛々しさに感動する私であった。
 奈良だから鹿がいるのは当たり前というわけではない。奈良公園からここまでは何十キロもあるから、逃げ出してきたとも思えない。生命力の輝きが野生と飼われているものとは違う。野生動物って、やっぱり美しいものなんだとあらためて思う。いつか大台ヶ原にカモシカを撮りにいこう。
 これでだいぶ疲れが吹き飛んで元気になった。きっと、室生山の神様が、私のあまりのヨレヨレぶりを見かねて、応援を送ってくれたのだろう。ありがとう、室生山と鹿さん。ここまで来てよかった。歩いたからこそこの出会いがあった。赤目からずっと一日歩き回っていろいろ見て、この鹿との遭遇が一番嬉しかった。旅はこういう思いがけない偶然があるから面白い。

室生寺3-9

 鹿との出会いから歩くこと30分。いったん気持ちは元気になったとはいえ、肉体的にはとっくに限界を超えているから、また激しく疲れてきた。そんな私を癒してくれたのがこの看板だった。
「一万本の花が咲く 弁財天 石楠花の丘 直進11キロ」
 って、直進できるか!
 目の前は草ボウボウで、川が流れていて、その向こうは山だ。直進なんてできっこない。川を越えて、山を越えて、真っ直ぐ11キロも歩くなんて、絶対イヤだ。けど、この看板には笑わせてもらった。それで体の力が抜けて、またちょっとだけ気持ちが元気になった。

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 徒歩の7キロというのは、感覚がよく分からない。一度バスで走った道とはいえ、歩くとなると全然進まない。通った道ということは分かっても、駅から何分くらいだったのかが思い出せない。
 このあたりも田んぼがあったから、そろそろ町まで近いんじゃないかと喜んだら、ここは途中の集落で、またすぐに人家は消えた。実際、ここから駅はまだまだ先だった。
 アオサギが飛び立ったので撮ってみる。風景も単調だから、こんなちょっとした出来事が嬉しい。

室生寺3-11

 バス停の路線図を見ると、なんとか宅前、というバス停がある。完全に個人宅の前じゃないか。きっと、それくらいしか目標物がなかったのだろう。そこに停まる必要があるとすれば、この家の関係者くらいのものだ。
 オレンジに塗られているゾーンは、自由乗車区間となっていて、申告制でどこでも降りることができる。手を挙げれば乗せてもくれる。田舎のバスで暗黙の了解でそうなっているところはあるけど、最初からそういうゾーンとして設定されているのは初めて見た。親切といえば親切には違いない。

室生寺3-12

 室生寺を出て1時間半後、ようやく駅近くまで戻ってきた。橋を渡って、165号線をくぐれば、その先に大野寺があって、そこまで行けば駅までの距離感は分かる。
 上の写真の古い民家は、そば屋さんか何かの店だった。前の田んぼで米を作りながら店もやるというスタイルかもしれない。

室生寺3-13

 大野寺はすでに門が閉まっていた。ここも5時くらいまでだろう。
 大野寺は、室生寺の守りを固めるための寺の一つで、役行者が室生寺と同時に開創し、空海が堂宇を建てたという話が伝わっている。ただ、これも室生寺の伝承と同じで、実際にそうだったのかどうかは分からない。ただ、興福寺との関係が深く、室生寺の末寺だったことは間違いない。
 明治33年(1900年)火事になって、ほとんどの伽藍は失われてしまった。
 重文の身代わり地蔵(木造弥勒菩薩立像で秘仏)や、裏手の弥勒磨崖仏(自然石に刻まれた仏の姿に見える)、シダレザクラなどが有名だ。

室生寺3-14

 予定通り、最後は19時4分発の電車に乗って、帰路についた。お疲れ様でした。
 タイトなスケジュールをほぼ完璧にこなしたというのは、大きな収穫だった。こういう旅もやろうと思えばできるということが分かった。でも、同じコースをもう一度回ってみろと言われたらきっぱり御免被る。今回は分からなかったからできただけで、分かっていたらできていない。無知ゆえにできることもある。
 写真とネタの収穫はたくさんあって、そういう意味では非常に充実した赤目行きとなった。歴史の知識という部分でも大いに得るものがあった。
 断続的ながら長らく続いた赤目行きシリーズもこれで終わりとなる。また明日からは地元ネタや小ネタに戻ろう。まずは大須について書きたいと思っている。写真の枚数が多いから、何回かのシリーズになりそうだ。
 来週はまた電車の旅だ。滋賀と岐阜の歴史巡りは、どんなものになるだろう。関ヶ原あたりではまた歩くことになりそうだ。楽しみでもあり、ちょっと恐ろしいような気もしている。


これが見たいがためにここまでやって来た室生寺五重塔 〜室生寺第二回
2008年08月22日 (金) | 編集 |
室生寺2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 仁王門をくぐって少し歩くと、左手に自然石を積み上げて作られた美しい石段が現れる。これを鎧坂(よろいざか)という。いよいよ700段の階段の始まりだ。
 本来ゆっくり撮るべきところを、やや急ぎ足でいく。のんびりしている時間的は余裕がなかった。
 5月には石段の両脇をシャクナゲが彩る。秋は赤、夏は緑で、冬は白。枯れた山寺にも四季折々の色がある。
 土門拳は雪の室生寺に執念を燃やした。
 このときは耳鳴りがするほどの蝉時雨が、頭の上から降りそそいでいた。

室生寺2-2

 鎧坂を登った先にあるのが金堂(こんどう)だ。金堂と聞くと、こんどーです、とついモノマネしたくなるのは30代以上のサガ。
 金堂というのは、いわゆる本堂の昔の呼び方だ。奈良時代から平安初期に建てられた寺院はこう呼んでいた。のちに本堂と名前を変えたり、そもそもこの時代の建物が残っていることが少ないので、金堂自体見かけることはあまり多くない。東大寺とか法隆寺とか唐招提寺とか、有名どころに残っていて、金という字が使われてるから、なにやら高尚なものに感じてしまいがちだ。
 室生寺の場合は特殊な例で、もともとの本堂であった金堂の他にもう一つの本堂がある。そのあたりのいきさつは、本堂のところであらためて書くことにして、まずは金堂の話をしたい。
 室生寺というのはいろいろ変わったところがあるというか、分からないことが多い。どういうわけか、本尊を祀るための金堂よりも先に五重塔が建てられている。五重塔は800年前後に建てられたことが分かっている。実質的な開基となった修円がこの世を去ったのが835年で、このときはまだ五重塔しか建っていなかったらしい。
 金堂が建ったのは修円の没後となると、850年前後だろうか。本堂が建てられたのは更にのちの鎌倉時代になってからで、室生寺が現在のような姿になるまでには相当な年数を要したようだ。
 ここは京の都からも平城京からも遠く離れていたことも幸いした。僧兵を持たなかったので戦に巻き込まれることもなく、大きな火事も出さなかったから、静かにゆっくりと歳月を重ねることができた。

 金堂は山の斜面を利用して建てられているために、懸造(かけづくり)になっている。長谷寺本堂や清水寺のような規模ではないものの、このスタイルは日本人の心に訴えるものがあるように思う。カッコいい建物だと思う。崖の途中に無理矢理建てている民家を見ると、土砂崩れは大丈夫かと心配になるけど。
 古い建物の屋根は、やはり柿葺(こけらぶき)がよく似合う。
 木材は杉が多く使われているようで、これは鎌倉末期の大修理でそうなったのかもしれない。正堂部分は平安時代前期のもので、礼堂(らいどう)は1672年に増設されたことが分かっている。最初は本尊を安置する正堂だけだったものに礼拝するための礼堂を付け足すことになって、そのとき懸造になったようだ。
 建物自体も当然の国宝指定で、堂内にも国宝、重文が並ぶ。
 本尊は釈迦如来立像で、これも国宝。もう一つの国宝が十一面観音立像で、あとは重文の文殊菩薩立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像が横一列に並び、手前には十二神将立像が立つ。
 これはもう圧巻としか言えない。写真撮影は禁止だからお見せできないのが残念だ。ただ、撮ったとしても実物の迫力は伝えきれない。
 以前は金堂の中まで入って近くから見られたらしい。今は舞台のところから離れて見るしかない。それがちょっと残念ではあった。

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 金堂の左手にあるのが弥勒堂。名前の通り、本尊の弥勒菩薩立像を安置してある堂だ。鎌倉時代の建築で、当初の姿とはだいぶ変わっているらしい。
 本尊も建物も重文なのに、ここに客仏で国宝の釈迦如来坐像がいる。客仏というのは、廃寺になった寺などから移ってきた仏像のことだけど、これはどこから来たものなんだろう。平安前期に彫られたものという以外、どこのものだったのかは分かっていないのだという。
 ここも中は撮影禁止になっている。でも、ぼおっと暗がりの中に浮かび上がっている仏像が写っていて、これが釈迦如来坐像ではないかと思う。
 公開していない仏像や美術品なども多数所有していて、その中にも国宝や重文がたくさんある。特に平安時代初期のものは貴重だ。

室生寺2-4

 室生寺にも神仏習合の一面がある。金堂の右手、弥勒堂の向かいに天神社がある。上の写真は拝殿で、天神社は階段を登った奥だ。
 屋根は苔むしているというより、何か植物を栽培しているみたいでちょっと笑えた。
 室生龍穴神社との関係性を示していると言えるだろう。龍穴神社の方が古い式内社で、それに呼応する形で室生寺が建てられたという説は正しいんじゃないか。

室生寺2-5

 足下を見ると、石に仏像が彫られている。ミニ神棚みたいなものもちゃんと設置されているから、これも大事なものなのだろう。仏はちょっとコミカルな感じだ。下半身がロボットみたい。
 軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)という明王像で、4つの顔と4本の手を持ち、あらゆる敵から人間を守る守護神だそうだ。

室生寺2-6

 残念なことに、本堂(灌頂堂)は大がかりな工事中で、全体がシートに覆われていた。鎌倉時代後期の1308年に建てられたもので、これも国宝指定になっている。横に回っても、裏に回っても、見えず、大工さんたちがトンカントンカン、作業をしている音だけが聞こえていた。
 灌頂(かんじょう)という密教の大切な儀式を行うために建てられた堂で、室生寺が真言宗に変わったことから、寺の中心はそれまでの金堂からこちらに移り、本堂となった。
 灌頂というのは、頭に水を灌いで正統な継承者とする儀式で、結縁灌頂、受明灌頂、伝法灌頂などがある。
 もともとこの場所には、創建時に本尊を祀るための堂があったとされている。それは五重塔よりも古いものだったかもしれない。
 本堂の建物は和様、大仏様、禅宗様が混じった独特の形式をしているそうだ。見てないので何とも言えない。屋根は入母屋造で、檜皮葺(ひわだぶき)らしい。檜皮葺は材料が貴重でもあるし、お金もかかることから格式の高いものとされ、昔は貴族の家などで使われたという。今はよほど重要な建物でしか使われていない。京都御所の紫宸殿、出雲大社、厳島神社、善光寺、清水寺、北野天満宮などだ。

室生寺2-7

 入り口だけ小さく開いていて、参拝はできるようになっていた。上からはトンカンうるさく音が響いていて、仏様もうるさいなぁと思っていたかもしれない。どの程度の修理をしているのだろう。
 如意輪観音坐像(重文)と、その手前左右には金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が向かい合わせになっている。
 如意輪観音坐像は日本三大如意輪観音とされているそうで、秘仏となっていて見ることはできない。

室生寺2-8

 室生寺一番の見所といえば、やはりなんといってもこの五重塔だ。私が室生寺へ行きたいと思ったのは、この五重塔の存在を知ったからだった。
 階段の下から見上げる構図は定番となっていて、その場に自分が立ってみると、なるほどここしかないなと思う。ちょうど西日を受けて、美しく光っていた。いや、素晴らしい。

室生寺2-9

 近くから見ると小さくほっそりしている。しかし、これは本物だと感じ入る。屋外にあるものでは最も小さな五重塔らしいけど(重文以上の中で)、大きさは問題じゃない。モノが違う。圧倒的な存在感だ。
 法隆寺の五重塔に次いで日本で2番目に古い800年頃のもので、文句なしの国宝だ。
 小さいとはいっても、16メートルある。ビルでいえば5階建てくらいだから、言われるほど小さくは感じない。

室生寺2-10

 この五重塔は、1998年(平成10年)9月22日に、台風の強風で倒れた杉の大木が屋根を直撃して大打撃を受けた。上の写真でいうと、手前左側の軒が上から下までざっくり削り取られてしまった。そのときの写真を見ると、マンガのようにばっくり割れていて、おおおぉぉぉ、と思わず声が出るほどだ。よくぞあの状態から直せたものだと感心する。
 不幸中の幸いだったのは、芯をはずれたことと、五重塔の造りがやわだったことだった。がっしりとした造りだったら、ポッキリ折れていたかもしれない。 
 修理工事は相当大がかりなものとなったようだ。一階ずつ切り離していったん持ち上げて、そこに木材を挟んでジャッキアップして修理していったのだという。解体までしなくてよかったのは、塔がコンパクトで軽かったというのがあった。破損部分の木を組み直して、屋根を葺いて、色を塗り直していき、2年がかりで元の姿を取り戻したのだった。
 以前の姿を知っている人は、色が派手になって安っぽくなったと思うらしいけど、本来の鮮やかさが戻っただけと思えばこの方がありがたくもある。昔の写真を見ると確かに渋いは渋い。でも、今の美しさも充分素晴らしいものだ。あれから8年経ったこともあって、だいぶ色が落ち着いてきたというのもあるだろう。
 修理後も国宝指定のままというのもよかった。修理の途中でいろいろ分かったこともあって、それもよかった点だ。800年前後に建てられたであろうという推定も、木の年輪を科学的に調査することで実証された。794年に伐採された木が使われているというから、ちょうど平安遷都の年だ。
 創建から鎌倉、江戸、明治時代にそれぞれ修理が行われたことも分かって、途中で手を加えられて姿を変えられていることも判明した。初期の頃はまだ板葺きだったようで、今の檜皮葺になったのは江戸時代に入ってからだったらしい。桂昌院が寄進して再興したときかもしれない。明治の修理では軒のラインも変えられという。

室生寺2-11

 五重塔近くにあったこれは何だろう。マップにも載ってないから分からない。

室生寺2-12

 五重塔から先は奥の院になる。ここで迷った。時間との兼ね合いもあって、進むべきか、引き返すべきか考えて、結局進んでしまった。この判断がこのあと私を大きく苦しめることになる。
 あまりにも深いダメージを負って3日回復しなかったことから判断ミスとするか、自分の限界を知ることができたことをもって正しい判断だったとするか、なんとも言えないところだ。ここで引き返していたら、このあとの展開はずいぶん楽になっていたことは間違いない。すでにこの時点でアップダウンの道を4時間半歩いていることを忘れてはいけなかった。更にこのあと2時間歩かなければいけないということを思い出せ。今ならそう私にアドバイスしたい。
 急勾配の階段がここから520段続く。この上り下りでヒザが壊れかけた。ガラスのヒザの人は決して室生寺の奥の院まで行ってはならない。

室生寺2-13

 見上げる巨木たち。途中で少し休むためにこんな写真を撮ったりしてみる。
 途中、立ち止まって休んでいたら、上から杖をついたおじいさんが降りてきた。負けていられないと思う。
 奥の院から帰り道の話はまた次回ということにしよう。最後の最後に室生山は私にとびきりの贈りものをくれる。それはこの旅を通じて最も嬉しい出来事だった。
 次回、室生寺第三回は、赤目の旅シリーズの最終回でもある。




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